小フランシスコ・エレーラとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 小フランシスコ・エレーラの意味・解説 

フランシスコ・エレーラ (子)

(小フランシスコ・エレーラ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 00:06 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
フランシスコ・エレーラ(子)
Francisco de Herrera el Mozo
エレーラ作、『聖ヘルメネギルドの勝利』
生誕 1622年
スペイン、セビリア
死没 1685年8月25日
スペイン、マドリード

フランシスコ・エレーラ(Francisco de Herrera el Mozo、1622年1685年8月25日)はスペインの画家である。同名の画家の父親、フランシスコ・エレーラ(Francisco de Herrera el Viejo: 1576–1656)と区別するために「el Moz(the Younger)」を付けて呼ばれる。

略歴

セヴィリアで有名な画家の次男に生まれた。父親の教えを受けて、父親の工房で働くが、父親の激しやすい性格のため、1640年代の後半に、父親のもとを離れイタリアに移った。

イタリアで過ごした期間には諸説あるが、ローマに長く滞在し、フレスコによる壁画を研究し、美しい色彩を特徴とする、ヴェネツィア派のスタイルも学んだ。1654年にはマドリードに戻っていて、エルサルバドルの教会のための祭壇画を描く契約を結んでいる。父親は1656年に亡くなっている。セビリアの多くの教会にも宗教画を描いた。

1660年にバルトロメ・エステバン・ムリーリョらとセビリアに美術アカデミー(Academia Sevillana del Arte de la Pintura)を共同設立し、セバスティアン・デ・リャノス・イ・ヴァルデス(Sebastián de Llanos Valdés: c.1605-1677)やムリーリョと共同代表を務めた。このアカデミーは1690年代まで続いた。

マドリードのカルメル会の教会に、代表作の『聖ヘルメネギルドの勝利』を描いた。1672年から、国王、カルロス2世宮廷画家として働き、ヌエストラ・セニョーラ・デル・ピラール聖堂の改修にも貢献した。

作品

参考文献

  • Herbermann, Charles, ed. (1913). "Francisco Herrera". Catholic Encyclopedia. New York: Robert Appleton Company.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  小フランシスコ・エレーラのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「小フランシスコ・エレーラ」の関連用語

小フランシスコ・エレーラのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



小フランシスコ・エレーラのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランシスコ・エレーラ (子) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS