富沢古墳とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 富沢古墳の意味・解説 

富沢古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/03 21:36 UTC 版)

富沢古墳

墳丘(中央右に石室開口部)
別名 新見古墳
所在地 鳥取県八頭郡智頭町新見(字アソフ子セイミ)
位置 北緯35度15分3.25秒 東経134度11分37.98秒 / 北緯35.2509028度 東経134.1938833度 / 35.2509028; 134.1938833座標: 北緯35度15分3.25秒 東経134度11分37.98秒 / 北緯35.2509028度 東経134.1938833度 / 35.2509028; 134.1938833
形状 円墳
規模 直径11-13m
高さ2.5m
埋葬施設 片袖式横穴式石室
出土品 須恵器
築造時期 6世紀末-7世紀初頭
史跡 智頭町指定史跡「富沢古墳」
地図
富沢古墳
テンプレートを表示

富沢古墳(とみざわこふん)は、鳥取県八頭郡智頭町新見にある古墳。形状は円墳。智頭町指定史跡に指定されている。

概要

鳥取県南東部、智頭盆地西部の新見川北岸に築造された古墳である。発掘調査は実施されていない。

墳形は円形で、南北13メートル・東西11メートル・高さ2.5メートルを測る[1]。墳丘上には列石が認められる[2]。埋葬施設は片袖式の横穴式石室で、南南東方向に開口する。現在では羨道開口部が破壊されているが、大部分は良好に遺存しており、智頭郡域では代表的な横穴式石室になる。石室内からは須恵器片が採集されている[2]。築造時期は古墳時代後期-終末期6世紀末-7世紀初頭[3](または7世紀前半[1])頃と推定される。

古墳域は1996年平成8年)に智頭町指定史跡に指定されている。

埋葬施設

石室俯瞰図
石室展開図

埋葬施設としては片袖式横穴式石室が構築されており、南東方向に開口する。石室の規模は次の通り[3]

  • 石室全長:残存7.7メートル
  • 玄室:長さ4.4メートル、幅1.5メートル
  • 羨道:幅0.95メートル、高さ1.6メートル

石室の石材は花崗岩の割石である[2]

文化財

智頭町指定文化財

  • 史跡
    • 富沢古墳 - 1996年(平成8年)7月1日指定[4]

脚注

参考文献

  • 史跡説明板(智頭町教育委員会、1997年設置)
  • 「富沢古墳」『智頭町誌』 上巻、智頭町、2000年。 
  • 「富沢古墳」『新鳥取県史』 資料編 考古2 古墳時代、鳥取県、2020年。 

外部リンク

  • ウィキメディア・コモンズには、富沢古墳に関するカテゴリがあります。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  富沢古墳のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「富沢古墳」の関連用語

富沢古墳のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



富沢古墳のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの富沢古墳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS