宇佐美寛爾
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宇佐美 寛爾(うさみ かんじ[1]、1884年(明治17年)1月27日[2] – 1954年(昭和29年)2月10日[3])は、日本の鉄道官僚。南満洲鉄道理事、華北交通総裁。
経歴

岐阜県出身。1907年(明治40年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し、鉄道院に入った[4]。九州鉄道管理局在籍中、同局と八幡製鐵所の疑獄事件で収賄容疑がかかり1918年(大正7年)7月5日、一審の福岡地方裁判所では無罪判決が出るも、後に覆り、懲役5月の実刑判決が1919年(大正8年)7月25日確定、休職中だった鉄道院参事を失官[5][6][7]。これにより正七位返上を命じられ、勲六等及び大礼記念章を褫奪された[8]。
1920年(大正9年)、南満洲鉄道株式会社に転じ、運輸部営業課長、鉄道部次長、鉄道部長、奉天事務所長、哈爾浜事務所長を歴任した[4]。1933年(昭和8年)に満洲国国有鉄道が成立し、南満洲鉄道がその経営を委託されると、関東軍司令部顧問・鉄路総局長に任命された[4]。翌年、南満洲鉄道理事に就任し、1936年(昭和11年)には鉄道総局次長となった[4]。
1939年(昭和14年)、中国華北地方に華北交通株式会社が設立されると、総裁に就任した[9]。
『ああ満鉄』『満鉄魂の詩 : 宇佐美喬爾身辺雑記』を著した満鉄奉天鉄道局長の宇佐美喬爾は弟[10][11]。
脚注
- ^ 戦前期官僚制研究会編『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』東京大学出版会、1981年、43頁。
- ^ 『日本近現代人物履歴事典』81頁。
- ^ 『昭和物故人名録』 日外アソシエーツ、1983年。
- ^ a b c d 人事興信録 第11版 1937.
- ^ 「九州疑獄判決 宇佐美は無罪 廿七名は有罪」『伯剌西爾時報』伯剌西爾時報社、1918年9月13日、3面。2025年9月5日閲覧。
- ^ 官報 1919年8月6日 一一三頁
- ^ 餌と針 一九七頁
- ^ 官報 1920年9月25日 六二八頁
- ^ 人事興信録 第11版 1939.
- ^ 宇佐美寛爾人事興信録 第13版
- ^ 宇佐美, 喬爾, 1892-国立国会図書館
参考文献
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上巻』人事興信所、1937年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上巻』人事興信所、1939年。
- 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
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