太子古墳とは? わかりやすく解説

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太子古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 22:58 UTC 版)

太子古墳

石室開口部付近
別名 大師の唐櫃古墳/太師唐櫃古墳
所在地 茨城県かすみがうら市安食734-1
位置 北緯36度6分38.93秒 東経140度21分21.32秒 / 北緯36.1108139度 東経140.3559222度 / 36.1108139; 140.3559222座標: 北緯36度6分38.93秒 東経140度21分21.32秒 / 北緯36.1108139度 東経140.3559222度 / 36.1108139; 140.3559222
形状 前方後円墳?
規模 墳丘長60m?
埋葬施設 横穴式石室
出土品 (伝)直刀・刀子・銀環・須恵器
築造時期 7世紀前半
史跡 茨城県指定史跡「太子古墳」
特記事項 装飾古墳
地図
太子古墳
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太子古墳(たいしこふん、大師の唐櫃古墳)は、茨城県かすみがうら市安食(あんじき)にある古墳。形状は前方後円墳と推定される。茨城県指定史跡に指定されている。

概要

茨城県中南部、霞ヶ浦と菱木川に挟まれた台地上に築造された古墳である。地元では「太子のカロウド」と通称される。明治期の開墾で石室・副葬品が発見され、現在では墳丘は失われている[1]

墳形は前方後円形で、墳丘長60メートル程度を測ったとされる[2][1]。埋葬施設は横穴式石室で、南方向に開口する。玄室の側面には朱で円文が5段に描かれた装飾古墳として知られる。副葬品として、明治期の開墾の際に直刀・刀子・銀環・須恵器等が出土したという。築造時期は古墳時代終末期7世紀前半頃と推定される[1]

古墳域は1977年昭和52年)に茨城県指定史跡に指定されている[2]

遺跡歴

  • 1890年明治23年)、開墾の際に石室の発見。直刀・刀子・銀環・須恵器等の出土[2]
  • 1895年(明治28年)、小室竜之助が『東京人類學會雜誌』に紹介[1]
  • 1896年(明治29年)、大野延太郎(雲外)が『東京人類學會雜誌』に装飾古墳として報告[1]
  • 1977年昭和52年)5月2日、茨城県指定史跡に指定[2]

埋葬施設

石室 玄室
両側壁には円文が描かれる(現在ではほとんどが消失)。

埋葬施設としては横穴式石室が構築されており、南方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]

  • 石室全長:3.8メートル
  • 玄室:長さ2.3メートル、高さ1.37メートル
  • 羨道:長さ1.5メートル

石室は後円部に半地下式で構築されたと見られる[1]。石室の石材は変成岩[1]。玄室の奥壁は一枚石で、両側壁は石2枚によって構築される[2]

玄室の両側面には朱で円文が5段に描かれる。現在ではほとんど消失しているが、明治期の報告に図面が残されている。

文化財

茨城県指定文化財

  • 史跡
    • 太子古墳 - 1977年(昭和52年)5月2日指定[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g 太子古墳(かすみがうら市ホームページ「かすみがうら市歴史博物館」)。
  2. ^ a b c d e f g 太子古墳(茨城県教育委員会)。

参考文献

(記事執筆に使用した文献)

関連文献

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関連項目

外部リンク

  • 太子古墳 - 茨城県教育委員会
  • 太子古墳 - かすみがうら市ホームページ「かすみがうら市歴史博物館」



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