大木久とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 大木久の意味・解説 

大木久

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 02:39 UTC 版)

大木 久(おおき ひさし、1924年7月6日 - 2013年3月20日[1])は、日本の実業家。元キーコーヒー株式会社代表取締役会長。義父の柴田文次はキーコーヒー創業者。

人物

山形県東村山郡寺津村(現・天童市寺津)で生まれる。学生時は「開校以来の神童」とたたえられるほど優秀な生徒であった。

木村コーヒー店(現キーコーヒー)入社後は、インドネシアの幻の「トラジャコーヒー」を復活させるなど、コーヒー一筋の人生を歩む。民間企業でありながら、5年をかけてインドネシアのインフラを整備し、地区民の生活を安定させた。同社代表取締役専務、同副社長、同会長を歴任し、1995年相談役に就任。2013年3月20日、慢性閉塞性肺疾患で死去。享年88。

略歴

1924年(大正13年) 山形県東村山郡寺津村(現・天童市寺津)に、和算の研究家の善太郎、教師・みやの次男として生まれる。寺津尋常高等小学校、県立山形夜間中学校、米沢工業専門学校(現山形大学工学部)電気通信科卒業。

1947年(昭和22年) 日本無線に入社。

その後、築地のヤミ市で木村コーヒー店(現キーコーヒー)の社長、柴田文次と出会う。柴田は大木を自宅に招くようになり、4人いる娘との結婚を望んだ。大木は次女・とよ子と結婚。

1952年(昭和27年) 木村コーヒー店(現キーコーヒー)に入社。

1970年(昭和45年) 当時副社長であった大木の元に一握りのトラジャコーヒーの生豆が届けられる。

1973年(昭和48年) 4月に、大木はインドネシアへと向かった。トラジャまでの道のりは険しく、島最大の都市から丸一日がかりであった。戦後に廃れた農場に足を踏み入れ、ジャングルと化していたそこで真っ赤なコーヒーの実・レッドチェリーを見つけた時、大木は涙を流したという。大木は約1ヶ月間、調査のために滞在し綿密にこの地と向き合った。そして、戦争に加担した日本人の手で「トラジャコーヒー」を復活させなければならないと心に誓った。

1996年(平成8年)10月15日 外務大臣表彰を受賞。長年にわたるトラジャ事業が認められた形となった。

2013年(平成25年)3月20日 慢性閉塞性肺疾患のため死去。

脚注




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  大木久のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大木久」の関連用語

大木久のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大木久のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大木久 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS