和逢堯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/11 08:08 UTC 版)
和 逢堯(か ほうぎょう、生没年不詳)は、唐代の官僚。本貫は岐州岐山県[1][2]。
経歴
気分の変わりやすい性格で、弁舌の才能があった。武周のとき、鼎を背負って宮殿に赴き、わが身を百度煮て天子をお助けしたいと言上した。罪に問われて荘州に流された。十数年して進士に及第し、監察御史に抜擢された[1][2]。
景雲2年(711年)、東突厥の黙啜が唐の公主の降嫁を求めると、睿宗はこれを許した。逢堯は御史中丞として鴻臚寺卿を兼ね、その使節をつとめた。東突厥の牙帳に到着すると、黙啜はその大臣を通じて「勅書には金鏤鞍を送るとあるのに、調べると銀地に金塗りの鞍である。これが天子の考えであるなら、公主も本物でないに違いない。和親のことは取りやめよう」と言わせた。逢堯は「漢の法は娘婿を重んじるもの。鞍を送らせたのは、ただ平安長久の意義を取ったものである。どうして金銀に上下があろうか。可汗が金を貪って銀を軽んじるようであっては、人を重んじて信頼を尊ぶことができようか」と答えた。黙啜はこれを聞いて、宴を設けて逢堯を礼遇した。また逢堯が黙啜を説得して紫衫を着させると、黙啜はその子を派遣して逢堯に従って長安に入朝させた[1][2]。
逢堯は帰国すると、功績により戸部侍郎に転じた。先天2年(713年)、太平公主に親しかったことが罪に問われて、朗州司馬に左遷された。開元年間、柘州刺史に転じた。在官のまま死去した[3][2]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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