吉浦野間氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/25 16:24 UTC 版)
前述のとおり、野坂房顕は覚書で「吉浦野間刑部大輔」と記していることから、野間刑部大輔の拠点は安芸国吉浦(現在の呉市吉浦町)であったと推定される。彼の同族とみられる「野間吉浦彦太郎」は、大永3年(1523年)8月時点で安芸国東西条において計200貫を知行していた。 刑部大輔は大内方として戦ったが、一方で安芸国矢野を本拠とする野間氏は大内氏と敵対した。大永5年(1525年)4月5日、大内氏の指揮官の陶興房は佐西郡岩戸(現在の広島県廿日市市佐方)の陣から渡海し、矢野郷に放火。6月、矢野の野間彦四郎が多賀谷武重の仲介で大内氏に降伏している。
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