古勒山の戦とは? わかりやすく解説

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古勒山の戦

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/09 20:03 UTC 版)

古勒山の戦 (コロク・ザンのたたかい/ グレ・イ・アリン-) は、イェヘ率いる九部連合軍とヌルハチ率いるマンジュ軍がグレの山[1]で衝突した明朝末期の戦役。


  1. ^ グレ, gure, 古勒 (清太祖武皇帝實錄, 清太祖高皇帝實錄)/ 古哷 (滿洲實錄)。*「gure(グレ) i(の) alin(山)」。
  2. ^ a b “秋九月壬子朔”. 清太祖高皇帝實錄. 1. 未詳. https://zh.wikisource.org/zh-hant/清太祖高皇帝實錄. "是役也斬級四千獲馬三千匹鎧胄千副以整以暇而破九部三萬之眾自此軍威大震遠邇懾服矣" 
  3. ^ マンジュ・グルンは清太祖ヌルハチが樹立した国家。大日本帝国関東軍の傀儡国家である満洲帝国とは別。マンジュは海西女真を制圧すると、アイシン・グルン (金国=後金) に改号する。子・ホンタイジの時にダイチン・グルン (大清国) と改号される。中国では清以前の政権を「建州部」(建州女真) と表記することが多い。
  4. ^ 『太祖高皇帝實錄』「(万暦二十一年)秋九月壬子朔」
  5. ^ ᠮᠠᠩᡤᡡᠰ (manggūs):莽古(『太祖武皇帝實錄』、『滿洲實錄』)、莽古思(『太祖高皇帝實錄』)。
  6. ^ ᠮᡳᠩᡤᠠᠨ (minggan):明安。* ᠮᡳᠩᡤᠠᠨ (minggan)は満洲語では「千」の意。
  7. ^ ᠰᡳᠪᡝᡳ (Sibei):實伯(『太祖武皇帝實錄』)、席北(『太祖高皇帝實錄』)、錫伯(『滿洲實錄』)。
  8. ^ ᡤᡡᠸᠠᠯᠴᠠ (Gūwalca):刮兒恰(『太祖武皇帝實錄』)、卦爾察(『太祖高皇帝實錄』)、卦勒察(『滿洲實錄』)。
  9. ^ ᠵᡠᡧᡝᡵᡳ (jušeri):朱舍里(『太祖武皇帝實錄』)、朱舍里(『太祖高皇帝實錄』)、珠舍哩(『滿洲實錄』)。* 満州長白山三部の一。
  10. ^ ᠶᡠᠯᡝᠩᡤᡝ (Yulengge):衛主・悠冷革(『太祖武皇帝實錄』)、路長・紆楞格(『太祖高皇帝實錄』)、路主(ᡤᠣᠯᠣᡳ ᡝᠵᡝᠨ, goloi ejen)・裕楞額(『滿洲實錄』)。
  11. ^ ᠨᡝᠶᡝᠨ (Neyen):內陰(太祖武皇帝實錄)、訥殷(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  12. ^ ᠰᡝᠣᠸᡝᠨ (Seowen):衛主・搜穩(『太祖武皇帝實錄』)、路長・搜穩(『太祖高皇帝實錄』)、路主・搜穩(『滿洲實錄』)。
  13. ^ ᠰᡝᡴᠰᡳ (Seksi):塞革失(『太祖武皇帝實錄』)、塞克什(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  14. ^ ᡠᡵᡳᡴᠠᠨ (urikan):兀里堪
  15. ^ ᠵᠠᡴᠠ (jaka):加哈(太祖武皇帝實錄)、扎喀(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  16. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「九部聯軍將大本營駐紮於渾河北岸,……」(九部聯合軍は大本営を渾河北岸に設置し、…)とあるが、この時は一時の急速の為に露営を張ったに過ぎず、食事を終えると直ぐに出発して嶺越えをしている。所謂「大本営」を張ったのはこれ以降の話の流れからヘジゲであると推定される。
  17. ^ a b ᡧᠠᠵᡳ (šaji):夏雞(『太祖武皇帝實錄』)、沙濟(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  18. ^ 『太祖武皇帝實錄』、『滿洲實錄』「五更矣」。
  19. ^ “五更[ゴコウ”]. 精選版 日本国語大辞典. 小学館. https://kotobank.jp/word/五更-500308. "② 一夜を五分した最後の時刻。現在の時刻で、春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで。寅の刻。戊夜(ぼや)。五声。" 
  20. ^ 維基百科「古勒山之戰」より引用、典拠一切なし。
  21. ^ a b ᡤᡠᠨᡩᠠᡳ (Gundai):滾代・皇后(『太祖武皇帝實錄』)、妃・富察氏(『太祖高皇帝實錄』)、袞代・皇后(『滿洲實錄』)。
  22. ^ 『太祖武皇帝實錄』「今九國ノ兵馬來リテ攻ムニ、何故ニ盹睡シタル。是レ昏昧カ、抑モ畏懼カ」
  23. ^ 『太祖武皇帝實錄』「敵ヲ畏ルル者必ズ枕ヲ安ゼズ。我彼ヲ畏レザル故ニ熟睡スルノミ。前ニ夜黑ノ兵三路我ヲ侵スト聞キ,來期未ダ得ザレバ,我ガ心安ゼズ,今日已ニ到レリ,我ガ心始メテ定マレリ。我若シ欺騙スル處有ラバ,天必ズ我ヲ罪シ,我當ニ之ヲ畏ルベシ。我天命ヲ承ケ,各國土ヲ守リ,彼我ノ安分ナルヲ樂マズ,反リテ故無ク九部之兵ヲ糾合シ,無辜之人ニ欺害ス,天豈ニ之ヲ祐ケム?」/ 『太祖武皇帝實錄』「人懼ルル所有ラバ、寢ルト雖モ、寐ヲ成サズ。我果シテ懼レナバ、安ゾ能ク酣寢セム。前ニ葉赫ノ兵三路來リテ侵サムヲ聞キ、期無キニ因リテ、時ニ以テ念ヲ爲ス。既ニ至レバ、吾ガ心安カナリ。吾若シ葉赫ニ負フ有ラバ、天必ズ之ヲ厭フ。安ゾ懼ザルヲ得ム。今我天命ニ順ヒ、疆土ヲ安ズ。彼我ヲ悅マズ、九國之兵ヲ糾シ、以テ無咎之人ヲ戕害ス。天必ズ祐ケザルヲ知ル也。」/ 『滿洲實錄』「敵ヲ畏ルル者、必ズ枕ヲ安ゼズ。我彼ヲ畏レザレバ故ニ熟睡スルノミ。前ニ葉赫ノ兵三路我ヲ侵サムト聞ク。來期未ダ得ザレバ我ガ心安ゼズ。今日已ニ到レバ我ガ心始メテ定レリ。我若シ欺騙スル處有ラバ、天必ズ我ニ罪シ、我當ニ之ヲ畏ルベシ。我天命ヲ承ケ、各國土ヲ守ル。彼我ノ安分ナルヲ樂マズ、反リテ故無ク九部之兵ヲ糾合シ、無辜之人ヲ欺害ス。天豈ニ之ヲ佑ケム。」
  24. ^ 『太祖武皇帝實錄』,『滿洲實錄』「天明」/『太祖高皇帝實錄』「及旦」。
  25. ^ ᡨᠣᡴᠰᠣ (tokso):拖素(『清太祖武皇帝實錄』)、拖克索(『清太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』) 。
  26. ^ 『清太祖武皇帝實錄』,『滿洲實錄』「爾等可盡解臂手頓項留於此若傷肱傷頸唯命是聽不然身受拘束難以勝敵我兵輕便必獲全勝矣」/ 『清太祖高皇帝實錄』「盡解爾蔽手去爾護項或項臂傷亦惟天命不然身先拘縶難以奮擊我兵輕便破敵必矣」* 「臂手」「蔽手」は手部を、「護項」「頓項」は頸部を保護する為の防具。
  27. ^ ᠨᠠᡳᡥᡡ (naihū):奈虎(『太祖武皇帝實錄』)、鼐護(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。* ᠨᠠᡳᡥᡡ (naihū)には北斗星の意もある。
  28. ^ ᠰᠠᠨᡨᠠᠨ (Santan):山坦。
  29. ^ 『太祖武皇帝實錄』など「辰時」。
  30. ^ a b ᡥᡝᠵᡳᡤᡝᡳ (Hejige):黑機革(『太祖武皇帝實錄』)、黑濟格(『太祖高皇帝實錄』)、赫濟格(『滿洲實錄』)。
  31. ^ ᠯᠠᠩᡨᠠᡵᡳ (langtari):狼塔里(『太祖武皇帝實錄』)、郎塔里(『太祖高皇帝實錄』)、郎塔哩(『滿洲實錄』)。* ラングタリかランタリか不明。
  32. ^ 『太祖武皇帝實錄』など「貝勒ハ何(イヅク)ニ在マス。我ガ兵見(アラハ)レタルハ幾何(イクバク)有リ」。
  33. ^ 『清太祖武皇帝實錄』には「言訖登山望敵勢」、『清太祖高皇帝實錄』には「言訖遂登山望之」、『滿洲實錄(漢文)』には「言訖登山望敵形勢」とあり、『清太祖高皇帝實錄』以外は「敵兵の勢力」を覧るために山に登ったとしているが、『滿洲實錄(満文)』には「musei(吾等の) cooha(兵) udu(幾何) bi(あり(や)) seme(と) hendufi(云ひ), jugūn(路) i(の) dalbai(側の) alin(山) i(の) dele(上に) tafufi(登り) coohai(兵の) baran(勢ひ) be(を) tuwafi(見て) hendume(曰ひける),……」とあり、直後に「musei(吾等の) cooha(兵も) inu(亦) geren(多し)」と言っているので、眺めたのは敵兵ではなくヌルハチの兵のはずである。*「muse」は聞き手と話し手を含めた「我ら」。中国語の「咱們」に相当する。
  34. ^ 『清太祖武皇帝實錄』,『滿洲實錄』「若シ來ル兵ヲ以テ多シト爲サバ、我ガ兵モ亦タ少カラズ。昔、大明ト交戰シキ。彼ノ兵山ニ漫チ野ニ遍リキ。我ガ兵二三百、尚ホ其ノ眾キヲ敗リキ。今、我ガ兵膽氣、驍勇有リ。必ズ此ノ兵ヲ敗ラム。若シ勝ズンバ、我軍法ニ甘ズ。」/ 『清太祖高皇帝實錄』「若シ敵兵ヲ以テ多シト爲サバ、我ガ兵モ亦タ豈ニ少シヤ。昔、明ヲ征ツ時、彼ノ兵山野ニ漫チ、我僅二三百人、尚ホ其ノ眾キヲ敗リキ。我ガ国之人、驍勇、敢戰。必ズ敵兵ヲ破ラム。如シ勝タズンバ、吾軍法ニ甘ズ。」
  35. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「……努爾哈赤派出武理堪前去偵查,擒獲葉赫一卒。經訊問得知來犯之敵有3萬之眾,……」(ヌルハチは武理堪を派遣して偵察させ、イェヘ軍の兵卒を一人捉えた。訊問によると敵は三万の大軍で、……)とあるが、典拠一切なし。「武理堪」なる人物は上述のウリカンと同一人物かと思われる。『清太祖武皇帝實錄』には「夜黑營中一人逃來」、『清太祖高皇帝實錄』には「葉赫營有一人來降者」、『滿洲實錄』には「葉赫營中一人逃來」とあり、『清太祖高皇帝實錄』以外はいづれも自発的投降者としている。
  36. ^ ᡝᡳᡩᡠ (Eidu):厄一都(『太祖武皇帝實錄』)、額亦都(『太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  37. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「第三日,努爾哈赤率兵馬據險布陣,聯軍主帥葉赫貝勒布寨與納林布祿對赫濟格城發動連續進攻,雙方互有傷亡。努爾哈赤派大將額亦都率領精銳騎兵百人,……」(三日め、ヌルハチ軍が天険に據って陣を取ると、聯合軍将帥・イェヘベイレ・ブジャイとナリムブルがヘジゲの城に連続して進攻し、双方に死傷者が出た。ヌルハチは大将・エイドゥに精鋭100名を率いさせ、……)とあるが、典拠一切なし。
  38. ^ ᡤᡳᠨᡨᠠᡳᠰᡳ (gintaisi):金台石(『清太祖高皇帝實錄』、『清太祖高皇帝實錄』)、錦台什(『滿洲實錄』)。
  39. ^ 『清史稿』「本紀1」には「太祖令額亦都以百人挑戰。葉赫貝勒布齋策馬拒戰,馬觸木而踣,我兵吳談斬之。」(ヌルハチがエイドゥに100人を率いて嗾けさせると、イェヘベイレのブジャイは馬に鞭を搏って応戦したが、馬が木に触れて躓き、ウタンが斬殺した)とある。
  40. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「在布置完滾木礌石等防禦工事後努爾哈赤就就寢入睡。」「……山上滾木擂石齊下,額亦都調頭殺向聯軍。」とある。「滾木礌石」とは、傾斜や高所から落としたり転がしたりして敵に中てるための丸太や岩のことを指すようだが、典拠一切なし。『滿洲實錄』には「所騎之馬被木撞倒」(乗っている馬が木に「ぶつかられ」て倒れ)とあるが、具体的にどういう状況なのかまでは記載がなく、ヌルハチが事前に防禦の一環として設置したという下りも、岩についても見当たらない。
  41. ^ ᡠᡨᠠᠨ (Utan):吾談(『太祖武皇帝實錄』)、吳談(『太祖高皇帝實錄』)、武談(『滿洲實錄』)。
  42. ^ 『滿洲實錄(満文)』「manju(滿洲) gurun(國) i(の) coohai(兵の ) utan(武談) i(と) gebungge(呼ぶ) niyalma(者) sujume(驅け) dosifi(進み) bujai(布齋) beile(貝勒) be(に) aktalame(跨り) yalufi(乘り) gidalame(槍突きて) waha(殺せ) manggi(しにぞ),……」
  43. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「納林布祿看到兄弟被殺昏倒在地,被屬下急忙救走。」(納林布禄は兄弟が殺されたのをみて気を失い、部下が慌てて救い出した。)とあるが、典拠一切なし。
  44. ^ 『滿洲實錄(満文)』「monggoi(蒙古の) korcin(科爾泌) i(の) minggan(明安) beile(貝勒) i(の) yaluha(乘れる) morin(馬) lifafi(泥に陷ち) tuhenefi(填まりて) morin(馬) i(の) enggemu(鞍), etuhe(着けたる) fakūri(股引) be(を) gemu(皆) waliyafi(打ち棄て), bontoho(裸の) morin(馬) yalufi(騎り) arkan(からがらに) seme burulame(逃げ失せ) tucike(出でき),……」 『清史稿』「本紀1」には「科爾沁貝勒明安馬陷淖中,易驏馬而遁。」(ホルチンベイレのミンガンは馬が泥に嵌り、裸馬に"乗り換え"て逃げた)とある。
  45. ^ 『滿洲實錄(満文)』「nuhaliyan(窪める) sangga(穴) de(に) jalume(滿てつ) sahame(積みつ) tuhebume(填め込みて),……」
  46. ^ ᠴᠠᡳᡥᠠ (Caiha):釵哈(『清太祖武皇帝實錄』)、柴河寨(『清太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  47. ^ ᠸᡝᡥᡝ ᠶᡠᠸᡝᠨ (wehe yuwen):吾黑運(『清太祖武皇帝實錄』)、渥黑運(『清太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。
  48. ^ 維基百科「古勒山之戰」には「……建州軍一路追擊至100餘里之外的輝發部境內。直至天黑,努爾哈赤才收兵回城。」(ヌルハチの建州軍はひたすら追撃し、100里余り離れたホイファ部の領地内に至ったが、空が暮れ、撤退した。)とあるが、典拠一切なし。 『滿洲實錄』には「追奔至哈達國柴河寨之南、渥黑運地。是夜。結繩截路。邀殺敗兵甚眾。」(ハダ国のチャイハ部落の南、ウェヘユウェンまで追撃した。その夜、縄を張って道を封鎖し、敗走を図る兵を捕まえては皆殺しにした)とある。
  49. ^ 陳, 康祺 (1886). “太祖擊敗葉赫哈達(二則)”. 郎潛紀聞 (二筆). 15. 未詳. https://zh.wikisource.org/wiki/郎潛紀聞二筆/卷十五#太祖擊敗葉赫哈達(二則). "次日,祝告堂子以行,果獲大捷,斬級四千,獲馬三千匹,鎧甲千副。正正堂堂,以整以暇,而破九部二萬之眾,自此軍威大震,遠邇懾服矣。" 
  50. ^ 万暦二十一年十月辛巳朔となっているが、恐らく辛亥朔の誤り。
  51. ^ ᠶᡠᠯᡝᠩᡤᡝ (Yulengge):悠冷革(『太祖武皇帝實錄』)、紆楞格(『太祖高皇帝實錄』)、裕楞額(『滿洲實錄』)。
  52. ^ 万暦二十一年十一月辛巳朔
  53. ^ ᡬᠠᡬᠠᡳ (G'ag'ai):剛蓋(『清太祖武皇帝實錄』)、噶蓋(『清太祖高皇帝實錄』、『滿洲實錄』)。*満洲文字にはアルファベット「g」で表記されるのが二つあり、後ろに母音「a, o, ū」を伴う場合は喉の奥から出す音、母音「e, u, i」を伴う場合は日本語に近いガ行の音であった。これは満洲語固有の発音体系であり、漢語を含めた外来語で「ga」を表すのに従来の「ᡤ」は使えなかった。そこで外来語の「ga」を表すために「ᡬ」という文字がダハイにより発明された。ガガイにはその外来語表記が使われている。
  54. ^ ᡶᠣᡩᠣᡥᠣ (fodoho):佛多和。*ᡶᠣᡩᠣᡥᠣ (fodoho)には柳の意もある。
  55. ^ Mangse (莽色) Dujuhū
  56. ^ Ahai (阿海)
  57. ^ 古楼、鼓楼、ともに現代中国語普通話の拼音では「gǔlóu」(グゥロウ)。
  58. ^ 张, 德玉. “新宾清前遗迹考察紀实”. 满族发源地历史研究: 69-74. 
  59. ^ 王, 洁 (2005). 付 (傅), 波. ed. “古勒城新考” (中国語). 赫图阿拉与满族姓氏家谱研究 (瀋陽市: 辽宁民族出版社): 282-287. 


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