厙狄昌とは? わかりやすく解説

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厙狄昌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 10:00 UTC 版)

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厙狄 昌(しゃてき しょう、生没年不詳)は、中国北魏末から北周にかけての軍人は恃徳。本貫は神武郡。

経歴

若くして膂力があり、騎射を得意とした。18歳のとき、爾朱天光に召されて幢主となり、討夷将軍の位を加えられた。爾朱天光に従って関中を平定し、功績により寧遠将軍・奉車都尉・統軍に任じられた。爾朱天光が敗れると、賀抜岳に従い、征西将軍・金紫光禄大夫となった。534年、賀抜岳が殺害されると、厙狄昌は諸将とともに宇文泰を後継者として推した。侯莫陳悦の平定に従って、陰盤県子の爵位を受け、衛将軍右光禄大夫の位を加えられた。

宇文泰の下で孝武帝を迎え、潼関を奪い、長子県子に改封された。535年、爵位は公に進んだ。竇泰を討って、車騎将軍・左光禄大夫となった。また従軍して弘農を奪い、沙苑で戦って、先頭に立って敵陣を陥れた。宇文泰に賞賛されて、帥都督に任じられた。538年河橋の戦いに参加して、冀州刺史となった。後に于謹とともに劉平伏を上郡で破り、馮翊太守に任じられた。しばらくして河北郡太守に転じた。547年、前後の功績により、大都督・通直散騎常侍となった。随国公楊忠の下で南方の少数民族の田柱清を撃破して、厙狄昌の軍功は最も高く、儀同三司の位を受けた。まもなく開府儀同三司に進んだ。550年、東夏州刺史として出向した。552年、爵位は方城郡公に進んだ。556年、六官が建てられると、稍伯中大夫の位を受けた。557年、北周の孝閔帝が即位すると、大将軍に任じられた。後に病没した。

伝記資料

  • 周書』巻27 列伝第19
  • 北史』巻65 列伝第53



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