千里亭芝石とは? わかりやすく解説

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千里亭芝石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/27 16:31 UTC 版)

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千里亭芝石(せんりてい しじゃく[1]、? - 嘉永元年3月20日1848年4月23日))は江戸時代後期の俳人尾張狂俳の中興の祖とされる[1]。苗字は西川、通称は官次(郎)。別号は福田庵、帯月庵。名は吉陣とされるが、龍潭寺に文化元年(1804年)5月26日銘の西川官次郎吉陣墓があり、疑いを有する[2]

生涯

尾張国海東郡福田新田(愛知県名古屋市中川区)出身[1]。先祖は近江国蒲生郡西川村(滋賀県竜王町)出身で、戦国時代信濃国伊那郡大河原城代(長野県大鹿村)、後に美濃国尾張国野田村(名古屋市中川区)、下之一色村(中川区)に移り、尾張西川氏四代目が東福田に移住、芝石は六代目という[1]

文政元年(1818年)、井上士朗七回忌追善集『あとのともし』に入集しており、30歳頃までには士朗門に入っている[1]。文政後期には中国地方を旅し、広島多賀庵一派や尾道風絮等と交流を持った[1]。また、この頃名古屋長島町二丁目(中区丸の内二丁目)に移住した[1]

士朗の没後、後継者大鶴庵竹有、平井大巣に従ったが、次第に興味が狂俳へと移り、天保6年(1835年)、書肆菱屋久八郎と組んで狂俳選集『太箸集』を世に出し、人気を得た[1]

嘉永元年(1848年)3月20日没、墓所は野田村龍潭寺[3]。法号は学圃院帯月自耕居士[3]。弟子に松浦羽州、大木静処、服部李曠等[3]

撰集

  • 天保6年(1835年)『狂俳冠句太箸集』全5編、『続太箸集』全3編
  • 天保7年(1836年)『狂俳海陸集』
  • 弘化2年(1845年)『ひふとせ集』

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 冨田和子「千里亭芝石とその狂俳 ―狂俳の俳諧への接近―」『連歌俳諧研究』第89号、1995年
  2. ^ 加藤国光編『尾張郡書系図部集』下、続群書類従完成会、p.669
  3. ^ a b c 名古屋市史』人物編第2、1934年 p.408



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