千坂多門
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千坂 多門(ちさか たもん)は、戊辰北越戦争の際、長岡藩 河井継之助から最初の八丁沖の戦いへの出撃を懇請され、戦死した米沢藩 散兵隊一番隊隊長。 米沢藩散兵隊は最先端の七連発スペンサー銃[1]を擁し、「米沢の元込隊」と呼ばれた。[2]
- ^ 『米沢市上杉博物館 特別展「戊辰戦争と米沢」展示資料目録』前期:2018年9月15日(土)~10月14日(日)
- ^ a b c d 『甘糟備後継成遺文』「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記」P314甘糟勇雄編1960.6、6月22日の日記
- ^ a b c d 『米沢市史 第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P634
- ^ 「史談会速記録 合本19」千坂高雅談 原書房1971-1976 河井継之助は千坂総督に米沢藩の7連発銃を貸してくれと言ってきたとのこと。結局、銃を貸す代わりに散兵隊を随行させることになった経緯を語っている。 P267「評議の結果、(千坂総督が)河井継之助に貴様が主になってやれと言った。 すると、河井はそれはやりますが、どうか上杉(米沢藩)から七発元込四百挺貸して呉れ(と言ってきた)、(千坂総督は)それは貸せないが此方(米沢藩)から400人貴様(長岡藩)に随行させる、そういうことに決定した」
- ^ 『甘糟備後継成遺文』「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記」P315甘糟勇雄編1960.6、6月22日の日記
- ^ 『戊辰役戦史(上)』P723大山柏 時事通信社 昭和43年
- ^ 『甘糟備後継成遺文』「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記」P317甘糟勇雄編1960.6では「米沢藩兵戦死2・傷9、長岡藩兵戦死8・傷16、会津藩兵死傷6」と記載されている
- ^ 『戊辰役戦史(上)』P 724 大山柏 時事通信社 昭和43年
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