内木場城とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 内木場城の意味・解説 

内木場城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 05:06 UTC 版)

logo
内木場城
宮崎県
別名 木場城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 北原氏?
築城年 不明
主な城主 橋口刑部左衛門、伊東氏島津氏
廃城年 元和元年(1615年
遺構 曲輪空堀[1]
指定文化財 史跡等未指定[2]
位置 北緯32度01分11.9秒 東経131度00分21.4秒 / 北緯32.019972度 東経131.005944度 / 32.019972; 131.005944
地図
内木場城
テンプレートを表示

内木場城(うちこばじょう)は、宮崎県小林市東方にあった日本の城平山城)。別名木葉城(こばじょう[注釈 1])。

概要

野首城の南方約1.5キロメートルの、標高236メートル台地上に立地する[5]。西南を浜ノ瀬川が廻る天然の要害で、中央の高い台地に本丸が置かれ、本丸と東出丸の間には空堀があった。また西側の一段低い台地に西出丸があった。

築城主や築城年等は不明であるが、真幸院を治めていた北原氏が築城したのではないかと推察され、永禄年間には橋口刑部左衛門が居住していたという。

その後、北原領を簒奪した伊東氏の城に帰し、元亀2年(1571年)9月に伊東祐安が入城すると城の改修がなされた。『日向記』によると、この改修作業の最中に祐安の屋敷の門に、「此陣は 大材木にこのこきり 挽きわずらうて 泣きつ笑いつ」という落首が立ったのであるが、祐安はそれが同じ伊東家臣である佐土原遠江守の仕業であると察し、遠江守の屋敷に行って涙ながらにこれを非難したとある。その祐安は、翌年の木崎原の戦いで討ち死にしている。

天正4年(1576年)に三ツ山(小林市の旧名)が島津氏の領有に帰すると島津氏の所有となったが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城とされた。

脚注

注釈

  1. ^ 『小林市史』第1巻では「きばじょう」[3]、その後に刊行された第3巻では「こばじょう」とルビが振ってある[4]。なお『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書1』(1998年)では「ウチコバ」とされている[1]

出典

  1. ^ a b 宮崎県教育庁文化課 1998 p.20
  2. ^ 「小林市指定文化財一覧」小林市公式HP
  3. ^ 小林市史編さん委員会 1965
  4. ^ 小林市史編さん委員会 2000
  5. ^ 宮崎県教育庁文化課 1999 p.128

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「内木場城」の関連用語

内木場城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



内木場城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの内木場城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS