今富村村方騒動
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天草崩れの6年後の文化8年(1811年)5月21日と翌9年5月に、今富村で「合足組(がっそくぐみ)」と呼ばれる集団が庄屋・上田演五右衛門の免職を要求する訴状を富岡代官所に出勤中の大庄屋に提出した。同11年(1814年)5月9日付で「合足組」と庄屋側は和解し組は解散するが、これは上田演五右衛門が庄屋を辞任するという条件付であった。 この「合足組」は天草崩れの「異宗回心者」が中心になって編成されていた。演五右衛門は島原藩の意向を受けて「異宗」探索のために動いていたため、「合足組」の目的は天草崩れの報復にあると演五右衛門は見たようであった。 しかし、実際には「合足組」は「異宗回心者」以外の者も参加していた。大橋幸泰の研究では、文化9年5月に作成された20ヵ条の庄屋非法の糾弾書に書かれたように演五右衛門の村政変革のため村民の負担が大きくなり村全体が難渋するようになったことや、下層農民の暮らしが不安定になっていることが、異宗回心者もそうで無い者も庄屋糾弾に加わった理由ではないかとしている。
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