丹党との確執と和平
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 14:14 UTC 版)
『吾妻鏡』によると、建久4年(1193年)2月9日、武蔵国の丹党(南西部に位置する)と児玉党(北西部に位置する)の両武士団の間で確執が生じ、合戦が生じる直前にまで及んでいた。それを聞いて駆けつけた畠山次郎重忠の仲裁によって、18日には和平をして両党は退いたとある。約10日間の緊張状態が続いていた事になり、もしそのまま開戦していたのなら、武蔵国の武士団勢力分布図に大きく影響を及ぼす事になったと考えられる(この時、児玉党を率いていたのは、家長か、あるいはその子息と考えられる)。 後世(15世紀初め)の話となるが、上杉禅秀の乱の際には、丹党と児玉党の両武士団は上杉氏憲(入道して禅秀)に味方し、共に敗れて所領を召し上げられている。応永25年(1418年)、本庄左衛門(入道して西号、本庄元朝か元翁と見られる)が阿久原を押領するも、鎌倉公方足利持氏が元の領主に返還するようにと命じている(阿久原は平安時代後期では児玉党の本拠地であり、本庄氏にとっては先祖発祥地であり、それを奪われた事は耐え難かったものとみられる)。
※この「丹党との確執と和平」の解説は、「庄家長」の解説の一部です。
「丹党との確執と和平」を含む「庄家長」の記事については、「庄家長」の概要を参照ください。
- 丹党との確執と和平のページへのリンク