下山大工の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 08:10 UTC 版)
安永7年(1778年)の甲府城内修復工事に際して、下山大工の竹下・石川両名が普請を請け負うが、これに対して下山大工内部の反対派が両家に対して訴訟を起こす。彼らは甲府町方大工や、他村の在方大工らを動員し、国中三郡において竹下・石川両家が総棟梁化することを危惧したという。この訴訟において、天明2年(1782年)には下山大工の支配権が否定されている。 また、一般的に大工は聖徳太子を職能神として太子講を組織するが、下山大工でも同業者組織として太子講が存在していた。下山大工の抗争に伴い、太子講組織も元文5年(1740年)には旧体制派と反対派に分裂している。こうした下山大工内部の分裂は安永7年の訴訟を契機に見直され、太子講組織が統一された。 文化4年(1807年)には「大工仕法之事」を、文化6年(1809年)には「万歳太子講」の大工仲間定書を成立させ、甲府町方大工や他村の在方大工から作料金の引き下げを非難されていたことを受け入れ、一定の作料金を定めた。この定書は下山村周辺だけでなく、広域的な在方大工集団でも受け入れられている。
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