上野泰とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 作家 > 歌人 > 歌人 > 上野泰の意味・解説 

上野泰

上野泰の俳句

ふらここの宙を二つに割り遊ぶ
一生のこの時のこの雁渡る
初電話父に代りて母となり
子と春の波の戯れいつまでも
学帽を耳に支へて入学す
尺蠖の哭くが如くに立ち上り
山霧に幹の如くに我は濡れ
干足袋の天駆けらんとしてゐたり
我をのせ廻る舞台や去年今年
打水の流るる先の生きてをり
春着きて孔雀の如きお辞儀かな
月仰ぐ月の面より風来たり
末の子の今の悲しみ金魚の死
椿落つかたづをのんで他の椿
海女として鉄道員の妻として
笑ふかに泣くかに雛の美しく
第三の志望なりしが入学す
美しく反りつつ鮎の釣られたる
考へを針にひつかけ毛糸編む
魂にゆりおこされて昼寝覚め
 

上野泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/30 01:55 UTC 版)

上野 泰(うえの やすし、1938年 - )は、日本の造園家ランドスケープアーキテクト。おもに日本の公団団地計画・ニュータウン計画における土地利用や公園緑地設計などに関わった実績を持つ。1960年代末、住宅地に対する“量から質へ”という社会的ニーズの中で、横浜市が掲げた3つの基本理念を基に港北ニュータウンは造られた。オープンスペース計画であるグリーンマトリックスシステムは、最重要な基幹的システムとして位置づけられていた。


  1. ^ 霜田(2017)「設立者は当時千葉大学生で起業家志望であった林茂也である。(中略)「林は、当時同じく千葉大生であった上野泰を主要なデザイナーに置き、その他大学を卒業したばかりの若手を所員として、主に官公庁からの設計業務を受託し精力的な活動を展開した。」「近代造園研究所の活動期間は1961年~67年の7年間という期間ではあったが、本社、ならびに業務の拠点が関東に集中していた1961年~64年を前期、そして、関西に拠点を移した65年~67年を後期というように区分ができる。上野が在籍していたのは主に前期にあたる期間で、その中で、設計理論を構築し、その実践成果としての作品を多く遺している。」 「前期についてはその実作リストや設計思想について作品カタログが作成されている。そこからの抜粋であるが、公園では鉄砲州公園(1962)、美竹公園(1963)、久松公園(1963) など地面の造形を強く意図した作品がある。また、住宅団地では、三鷹台(1961)、藤沢(1962)、高根台(1962)、赤羽台(1962)、豊四季台(1963)、草加松原(1963)、花畑(1963)、園生(1963)、西新井第三(1963)、公田町(1964)など首都圏における実作がある。」「近年の建て替えや改修でその姿が失われた作品も多いが、公園などと比較すれば団地の屋外空間は残存しているものも多い。」「1960年代当時、団地のプレイロット設計の標準化に取り組むために将来の造園設計の動向を予見しつつ、確固たる設計理論を確立することが必要とされていた。日本住宅公団の外部にあって当時の住宅団地の造園設計を多数手がけた「近代造園研究所」の中心的な存在であった上野は、住宅公団関係者らとの共同作業を繰り返しながら、その独自の理論を展開、実践した。」


「上野泰」の続きの解説一覧



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「上野泰」の関連用語

上野泰のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



上野泰のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
現代俳句協会現代俳句協会
Copyright(C) 現代俳句協会
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの上野泰 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS