上野倶楽部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/24 23:02 UTC 版)
上野倶楽部(うえのくらぶ)は明治末年に東京・上野、不忍池の北側に建てられた洋風の集合住宅である。日本初のアパートメントとも言われる。
上野倶楽部が完成したとされる11月6日は、「アパート記念日」と呼ばれることがある[1]。
概要
1910年(明治43年)11月、東京市下谷区上野花園町1番地(現・台東区池之端3丁目)[2]に木造5階建ての賃貸住宅「上野倶楽部」が建設された。52坪の敷地に建坪49坪、5階建でおよそ63戸であった。各部屋は8畳(6畳、2畳)、6畳半(4畳半、2畳)から3畳までで、リノリウム敷きの廊下の左右に部屋が並んでいた。扉に施錠することができた。室内に押入があり、上段は衣類・寝具の収納用、下段に食器棚と水道・ガス設備があった。洗面台、便所は各階に1か所、風呂は下階に2か所あった。住民は会社員、公務員、教員が多く、独身より夫婦者が多かったという[3]。
関東大震災では大きな被害を免れたようで、昭和初期にも「不忍ビルディング」という名称で残っていた[4]。この頃には「現在では下は刀剣屋になり上は落莫たる貸室の観がある」[5]と言われる状態であった。
1943年(昭和18年)6月、火災のため焼失した。跡地は動物園の敷地になっている。
住民
- 西条八十 - 1918年、家族から離れ仕事部屋として借りる。ここで「かなりや」の想を得た[6]。不忍池のほとりに「かなりや」の歌碑がある。
- 野坂参三 - 1917-1918年、妻の龍とともに住む[7]。
- 木村荘太 - 1916年頃に入居していた。
- 佐藤春夫 - 木村荘太によれば、佐藤がここで『田園の憂鬱』を執筆していたという[8]。
- 竹久夢二 - 1911年夏、妻たまきを大森に残して入居。
- 市川房枝 - 1920年頃に住んでいたという[9]。
参考文献
- 東京市社会局『共同住宅及びビルディングに関する調査』(1923年)国立国会図書館デジタルコレクション[3](ログイン必要)
注釈
- ^ 「11月6日は「アパート記念日」住まいと暮らしの歴史に思いを馳せる日」(Forbes JAPAN Tips)[1]。11月6日に完成したという説は北嶋広敏の『日めくりデキゴト史365 : 一日一読』(日本文芸社、1988年)に見えるが、典拠は示されていない。また記念日がどのように制定されたのかも不明。
- ^ 『東京市及接続郡部地籍地図』下巻、下谷44図[2]の右下に「上野倶楽部」とある。
- ^ 東京市社会局『共同住宅及びビルディングに関する調査』(1923年)pp29-31。
- ^ 内藤一郎『アパート・ライフ』(1937年)p69。
- ^ 和田健次『社会文化史事物起原大辞典』(1935年)p12。
- ^ 西条八十『現代童謡講話』(新潮社、1924年)pp19-24。
- ^ 野坂参三『風雪のあゆみ 2』(新日本出版社、1975年)p69、p207。
- ^ 木村艸太『魔の宴』(朝日新聞社、1950年)p283。
- ^ 『自由評論』(8巻11号、1920.11)p71。
関連項目
- 上野倶楽部のページへのリンク