三上兵庫頭についての異説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/26 17:35 UTC 版)
現在、この三上兵庫頭について興味深い説が発表されている。鳥取市在住の中世史研究家・高橋正弘氏は自身の著書『因伯の戦国城郭 通史編』において「三上兵庫頭は山名東揚ではなく、山名一族とは異なる近江系三上氏の三上経実である」と著している。 加えて山名東揚が道竹城に入ったのは確かだが永禄7年の道竹城合戦は存在せず、本当の三上兵庫頭である三上経実の方が天文10年(1541年)の道竹城合戦において討死したとしている。 また、永禄7年当時の山名豊数は毛利氏と結んだ武田高信によって鹿野城に追いやられていることからも、豊数が鹿野城から遠く離れた道竹城を攻撃するのは不可能とされており、現在ではこの説のほうが有力視されている。
※この「三上兵庫頭についての異説」の解説は、「道竹城」の解説の一部です。
「三上兵庫頭についての異説」を含む「道竹城」の記事については、「道竹城」の概要を参照ください。
- 三上兵庫頭についての異説のページへのリンク