ルイーズ・ドルレアン (1882-1958)とは? わかりやすく解説

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ルイーズ・ドルレアン (1882-1958)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 04:52 UTC 版)

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ルイサ・デ・オルレアンス
Luisa de Orleans
ルイーズ・ドルレアン、1912年

全名 Louise Françoise Marie Laure
ルイーズ・フランソワーズ・マリー・ロール
称号 カラブリア公妃
出生 (1882-02-24) 1882年2月24日
フランス共和国カンヌ
死去 (1958-04-18) 1958年4月18日(76歳没)
スペインセビリア
埋葬 スペインセビリア、サルバドール教会
配偶者 カルロ・タンクレーディ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ
子女 一覧参照
家名 オルレアン家
父親 パリ伯フィリップ
母親 マリー=イザベル・ドルレアン
宗教 キリスト教カトリック
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ルイーズ・ドルレアンフランス語: Louise d'Orléans, 1882年2月24日 - 1958年4月18日)は、フランスのオルレアン家の王女で、ブルボン=シチリア家のカラブリア公・スペイン王子カルロ・タンクレーディの2度目の妻。前スペイン王フアン・カルロス1世の母方の祖母。スペイン語名はルイサ・デ・オルレアンスLuisa de Orleans)。

生涯

フランス王「フィリップ7世」を名乗るオルレアニストのフランス王位請求者パリ伯フィリップと、その妻であるスペイン王女マリア・イサベルの間の四女として生まれた。1907年11月16日、イングランドのウスターシャーにおいてブルボン=シチリア家のカルロ・タンクレーディ王子と結婚した。夫は死別した先妻のスペイン王女マリア・デ・ラス・メルセデスとの結婚を通じてスペイン王子Infante de España)の称号を有していた。

1931年にスペインで第2共和国政府が成立すると、ルイーズとその家族はイタリアスイスへの亡命を余儀なくされた。ルイーズは1936年、スペイン内戦に身を投じた一人息子のカルロスを亡くしている。フランシスコ・フランコが内戦を収束させて政権を掌握すると、一家はスペインに帰国することが出来た。

子女




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