マーダヴ・ラーオの死とナーラーヤン・ラーオの殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/23 15:38 UTC 版)
「ラグナート・ラーオ」の記事における「マーダヴ・ラーオの死とナーラーヤン・ラーオの殺害」の解説
1772年10月6日、ラグナート・ラーオが軟禁されていたシャニワール・ワーダーの自宅から逃げたが、再び逮捕された。だがこのとき、マーダヴ・ラーオの病状は深刻で、このような事件をかまうところではなかった。 そして、同年11月28日、宰相マーダヴ・ラーオは結核より死亡し、弟のナーラーヤン・ラーオが即位した。ラグナート・ラーオはその摂政になったものの、ナーラーヤン・ラーオとの擦れ違いから、宰相位への野望をめぐらすこととなった。彼は妻のアーナンディー・バーイーと共謀し、ナーラーヤン・ラーオの暗殺を考えるようになった。 そして、1773年8月30日、ガネーシャの祭りの最終日、ラグナート・ラーオは刺客シュメール・シング・ガールディーを放ち、ナーラーヤン・ラーオを自室で暗殺させた。遺体はその日の深夜にひそかに川で火葬したという。
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