ファウスタ (ローマ皇后)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/04 14:10 UTC 版)
| ファウスタ Fausta |
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| 在位 | 307年 – 326年 |
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| 全名 | フラウィア・マクシマ・ファウスタ Flavia Maxima Fausta フラウィア・マクシマ・ファウスタ・アウグスタ(即位後) Flavia Maxima Fausta Augusta |
| 称号 | ローマ皇后 |
| 出生 | 289年頃 |
| 死去 | 326年 |
| 配偶者 | コンスタンティヌス1世 |
| 子女 |
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| 父親 | マクシミアヌス |
| 母親 | エウトロピア |
フラウィア・マクシマ・ファウスタ(ラテン語: Flavia Maxima Fausta、289年頃 - 326年)は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世の皇后。西方正帝マクシミアヌスの娘である。ローマ皇后でありながらも、326年にコンスタンティヌス1世によって処刑された。死後、記憶の破壊の対象となり、あらゆる公的記録が抹消されたため、彼女が処刑された理由ははっきりとしない。東ローマ帝国の歴史家であるゾシモスやヨハネス・ゾナラスは、コンスタンティヌス1世と前妻ミネルウィナとの子であり、ファウスタにとって継息子に当たるクリスプスと彼女との間で姦通が疑われたからであるとしている。
経歴
前半生
ファウスタは、西方正帝であるマクシミアヌスと皇后エウトロピアの子として生まれた。ファウスタの年齢を示す史料が存在しないため、歴史学者によって、彼女の生年には289年/290年[3]から290年代末まで幅がある[4][5]。307年、テトラルキアによる支配を強固なものにするため、マクシミアヌスはファウスタをコンスタンティヌス1世に嫁がせた[6]。
310年、権力闘争に敗れたマクシミアヌスが死去すると、当初コンスタンティヌス1世は彼の死を不幸な悲劇に見せかけようとしたが、やがて娘のファウスタが父マクシミアヌスの失脚に関与したとの噂が広まるようになった。古典学者のティモシー・バーンズは、これらの言説がコンスタンティヌス1世とマクセンティウスの闘争が行われていた時期に創作された可能性を主張している[7]。
コンスタンティヌス1世との間には5人の子供を儲けた[8]。ファウスタは324年まで「ノビリッシマ・フェミナ」(Nobilissima Femina、最も高貴な女性)の名誉称号を有しており[9]、コンスタンティヌス1世からローマ皇帝一族の女性に贈られる「アウグスタ」(Augusta)の称号を与えられたときには、彼の実母である聖ヘレナとともにこれを受けている[10][11][12]。
処刑
326年、コンスタンティヌス1世は、前妻ミネルウィナとの間の子であるクリスプスを処刑した後、ファウスタも処刑した[10]。この2人の処刑理由は明らかになっていないため、アウレリウス・ウィクトルの『皇帝列伝要約』 で記されているように、ファウスタとクリスプスが対立していたとする説[13]や、ファウスタ自身の不貞行為、とりわけ継息子であり年齢の近いクリスプスとの姦通を原因とする説など、様々な説が提唱されてきた。
『皇帝列伝要約』およびフィロストルギオスの『教会史』(フォティオス1世による要約版)によると、ファウスタの処刑理由は彼女自身がクリスプスの死に関与したことだとされている。クリスプスに対して、ファウスタが不明確な告発を行ったから彼は亡くなったのだと「人々が考えていた」ため、彼女は過熱した風呂に閉じ込められる形で処刑された[13]。
しかしコンスタンティヌス1世は、戦争による著しい功績によってローマ帝国全土の支配権を獲得すると、妻のファウスタの指示(と、人々は考えていた)によって、息子であるクリスプスを処刑するように命じた。その後、彼は妻のファウスタを過熱した風呂に閉じ込めて殺害したが、これは彼の母であるヘレナが、孫の死を深く悲しみ、彼を責め立てたためである。[14]
一方で、東ローマ帝国の歴史家であるゾシモスは、処刑理由として姦通を挙げている。
彼は、前にも私が述べたように、カエサルの地位にふさわしいと思われていたクリスプスを殺害したが、その際、彼が継母であるファウスタとの性的関係を疑われても、自然法など全く顧みなかった。コンスタンティヌス1世の母であるヘレナはこの出来事に深く心を痛め、その若者の殺害を認めようとしなかった。彼女の「感情」をなだめるために、コンスタンティヌス1世はより強大な悪をもって悪を正そうとし、通常よりも高温で風呂を沸かすように命じたうえで、ファウスタをその中へ沈め、死亡したころに引き上げた。[15]
12世紀にヨハネス・ゾナラスによって著された歴史書によると、クリスプスの死は、ファウスタが彼への性的な誘惑に失敗したため、復讐の念から姦通の罪を告発し、もたらされたものだとしている。しかし、コンスタンティヌス1世はこれが讒言であることに気が付いてファウスタの処刑を命じたが、これはまるでギリシア神話におけるパイドラーとヒッポリュトスの逸話のようであった[16]。なお、クリスプスが無実だったのであれば、彼に対するダムナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)は取り消されるべきであるが、実際にはそのまま断行されている[17][18][19]。
西洋古代史学者のハンス・ポールサンダーは、ファウスタに対して記憶の破壊が行われていることから、コンスタンティヌス1世には彼女を殺害する意思が確かに存在したことの証拠であるとして、彼女の死が事故であるとする学説を否定している。これに対して、ファウスタは事故死であるとの立場をとる、西洋史学者のデイヴィッド・ウッズは、「不名誉のどん底にいる人物にも、不慮の事故は起こり続ける」と述べている[20]。彼は、クリスプスとファウスタの2人は実際には処刑されていない可能性があると主張しており、過熱した風呂と当時の堕胎技術との関連性を示している[21]。クリスプスと関係をもったことによって望まぬ妊娠をしてしまったため[22]、中絶のための医療行為を受けている最中に発生した致命的な事故が、彼女の死の原因であるとした。
コンスタンティヌス1世は326年頃、クリスプスとファウスタに対する「記憶の破壊」を命じたため、当時の公的記録をはじめとした一切の史料に彼女の結末についての記載が存在しない。コンスタンティヌス1世の伝記作家であるポール・スティーブンソンは、自身の著作において、「エウセビオスはいつだってごますり野郎だから、『コンスタンティヌスの生涯』ではクリスプスにもファウスタにも言及していないうえ、『教会史』の最終版ではクリスプスに関する記述を削除した。」と述べている[23]。コンスタンティヌス1世の甥であるフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスこそ、コンスタンティウス2世への賛辞の中でファウスタを褒め称えたものの[24]、彼女の記憶が回復されたとするその他の記録は残っていない[25][11]。
脚注
- ^ http://laststatues.classics.ox.ac.uk, LSA-573 (J. Lenaghan)
- ^ statue, (300–325) 2024年9月25日閲覧。
- ^ Barnes 1982, p. 34.
- ^ Drijvers 1992, p. 502.
- ^ Waldron 2022, p. 191 with n. 98.
- ^ Drijvers 1992, p. 500.
- ^ Barnes 1973, pp. 41–42.
- ^ Hans Pohlsander, Fausta (293-326 A.D.) Archived 13 July 2024 at the Wayback Machine.
- ^ Drijvers 1992, pp. 500–501.
- ^ a b Woods 1998, p. 70.
- ^ a b Drijvers 1992, p. 501.
- ^ Stephenson 2010, p. 217.
- ^ a b Woods 1998, pp. 70–71.
- ^ Epitome de Caesaribus, 42.11–12
- ^ Barnes, Timothy. Constantine Dynasty, Religion and Power in the Later Roman Empire, 145.
- ^ Garland, Lynda. Questions of Gender in Byzantine Society, 108.
- ^ Drijvers 1992, p. 505.
- ^ Stephenson 2010, p. 221.
- ^ Woods 1998, p. 73.
- ^ Woods 1998, p. 86.
- ^ Woods 1998, p. 76.
- ^ Stephenson 2010, p. 222.
- ^ Stephenson 2010, p. 220.
- ^ Julian, "Panegyric in honour of Constantius", 9.
ウィキソースには、Panegyric in honour of Constantiusの原文があります。 - ^ Pohlsander 1996, p. 54.
参考文献
- Barnes, T. D. (7 December 1973). “Lactantius and Constantine”. The Journal of Roman Studies 63: 29–46. doi:10.2307/299163. JSTOR 299163.
- Barnes, Timothy D. (1982). The New Empire of Diocletian and Constantine. Cambridge, MA: Harvard University Press. doi:10.4159/harvard.9780674280670. ISBN 0-674-28066-0
- Drijvers, Jan Willem (1992). “Flavia Maxima Fausta: Some Remarks”. Historia 41 (4): 500–506. JSTOR 4436264.
- Pohlsander, Hans A. (1996). The Emperor Constantine. Routledge. ISBN 0-415-31938-2
- Stephenson, Paul (2010) (英語). Constantine: Unconquered Emperor, Christian Victor. London, Quercus. ISBN 978-1-4683-0300-1
- Waldron, Byron (2022). Dynastic Politics in the Age of Diocletian, AD 284-311. Edinburgh University Press. ISBN 9781474498654
- Woods, David (1998). “On the Death of the Empress Fausta”. Greece & Rome 45 (1): 70–86. doi:10.1093/gr/45.1.70.
外部リンク
. Encyclopedia Americana (英語). 1920.
| 王室の称号 | ||
|---|---|---|
| 先代 ガレリア・ウァレリア (もしくはミネルウィナ) |
ローマ皇后 307年–326年 共同統治者 ガレリア・ウァレリア (307年–311年) ウァレリア・マクシミラ (307年–312年) フラウィア・ユリア・コンスタンティア (313年–324年) |
次代 ユリウス・コンスタンティウスの娘 |
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