ハンス・ブルクマイアーとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 美術家 > 画家 > ドイツの画家 > ハンス・ブルクマイアーの意味・解説 

ハンス・ブルクマイアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/16 10:23 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ハンス・ブルクマイアー
ハンス・ブルクマイアーと妻アンナ(Lukas Furtenage画、1529年)
生誕 1473年
アウクスブルク
死没 1531年
アウクスブルク

ハンス・ブルクマイアー(父)Hans Burgkmair der Ältere, 1473年 - 1531年)は、ドイツ画家版画家

生涯

ブルクマイアーはアウクスブルクに画家トマス・ブルクマイアーの子として生まれた[1]。ちなみに、ブルクマイアーの同名の息子も画家である(Hans Burgkmair dem Jüngere、1500年 - 1562年)。1488年コルマールマルティン・ショーンガウアーの弟子となるが、ブルクマイアーが通常の修行期間を終える前にションガウアーが亡くなってしまった(1491年)。その後、アウクスブルクで仕事をし、1498年には親方となり自分の工房を開いた。1507年にはイタリアを訪れ、そのスタイルに影響を受けた。

ホルスタインはブルクマイアーの手になる木版画が全部で834、そのほとんどは本の挿絵で、そうでないものは100ちょっとしかない、とした。その中でとくに優れたものは構成が際だっていて、完全にとはいかないまでもイタリア・ルネサンスのスタイルとブルクマイアーの根底にあるドイツのスタイルがブレンドされている。1508年頃からは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のために木版画制作に多くの時間を費やし、それは皇帝の亡くなる1519年まで続いた。『マクシミリアン1世の凱旋』と題された135の木版画のほぼ半分は人物を画面いっぱいに描いていて、高い評価を受けた。他には『Weißkunig』と『Theuerdank』の挿絵のほとんどを手掛けた。

ブルクマイアーはキアロスクーロ版画の発明者としても重要な人物である。1508年に最初に1つのトーンブロック(色版)を使った[2]。『"死"に驚く恋人たち』(1510年)では3つの版木を用いた[3]。ラインブロック(線描画の主版)では満足な仕上がりにならなかったので、最初に色のみで印刷するように設計した。ハンス・バルドゥングルーカス・クラナッハによる以降のキアロスクーロ版画ではラインブロックも使われるようになった[4]

ブルクマイアーは成功した画家で、アウクスブルク市民や皇帝の宮廷のメンバーのために宗教画も制作した。それらの多くはミュンヘンウィーンなどのギャラリーにある。肖像画は宗教画より現代的な感覚のものである。

ブルクマイアーは1531年にアウクスブルクで亡くなった。

ギャラリー

脚注

  1. ^ Hans Burckmairカトリック百科事典
  2. ^ Emperor Maximilian on Horseback Archived 2007年1月6日, at the Wayback Machine.
  3. ^ Lovers Surprised by Death
  4. ^ The Renaissance Print, David Landau & Peter Parshall, Yale, 1996, ISBN 0300068832




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ハンス・ブルクマイアー」の関連用語

ハンス・ブルクマイアーのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ハンス・ブルクマイアーのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのハンス・ブルクマイアー (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS