ニコロ・ダ・ポンテとは? わかりやすく解説

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ニコロ・ダ・ポンテ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/10 14:46 UTC 版)

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Nicolò da Ponte
ベネチア総督
任期
1578–1585
個人情報
生誕 1491年1月15日
死没 1585年7月30日(94歳)
宗教 カトリック


ポンテの紋章

ニコロ・ダ・ポンテ(イタリア語:Nicolò da Ponte)1491年1月15日1585年7月30日)は、第87代ベネチア総督。 1578年から1585年まで勤め、概ね静かな時代だった。

生涯

1491年1月15日ベネチアの聖アグニーズにて、父アントニオ・ダ・ポンテと母レジーナ・スパンドリーノ(コンスタンティノープル出身)の間に生まれた。 ポンテ家はベネチア植民地のネグロポンテ王国英語版(現在のギリシャエヴィア島)に多くの資産を保有していたが、それがオスマン帝国に奪われた事で深刻な財政難に有った。 しかし、父がギリシャ系の妻と結婚した事は、ポンテ家が未だ東方との貿易を維持している事を意味した。 このような困難にも関わらず、ニコロは素晴らしい教育を受けた。 有名なイグナシオ・ダンティ英語版を学友に持ち、哲学をパドヴァ大学で学んだ。 しかし恐らくカンブレー同盟戦争(1508年1516年)の勃発によって、彼は卒業出来なかった。 他の多くのベネチア貴族のように、彼はクルスス・ホノルムを目指した。 彼はCollegio dei Saviに選ばれたが、すぐに退任した。

1512年1530年の間には貿易で成功を収め、San Maurizioに豪華な宮殿を建て、15万ドゥカートを得たと推定される。

1514年に薬学博士号を授与された。

1520年、Arcangela Alvise Canalと結婚し、AntonioとPaulineの2人の子を得た。

1521年から2年間、Sebastian Foscariniの代わりにリアルトの学校で2年間哲学を教えた。

1558年、息子のAntonioが彼より早く亡くなった。

1570年、San Marcoの検察に就任した。

1578年3月3日、44票を得て接戦を制し、総督に就任した。 既に80代後半だったが、彼の活発な治世は7年に及んだ。 彼は多くの場所で反教権主義を明らかにした。

1581年1582年の内乱で、10人会議が改革された。

1585年7月30日、彼は94歳で没し、甥で同名のNicolòに財産を譲った。

1590年、Paulineが子を持たずに亡くなり、Da Ponte家のこの家系は断絶した。

関連項目

外部リンク

公職
先代:
セバスティアーノ・ヴェニエル
ベネチア総督
 1578年~1585年   
次代:
パスクアーレ・チコーニャ英語版



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