ド・ブランヴィリエ侯爵夫人とは? わかりやすく解説

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ド・ブランヴィリエ侯爵夫人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 09:43 UTC 版)

マリー・マドレーヌ・ドルー・ドブレー
Marie Madeleine Dreux d'Aubray
死刑判決を受けた直後のド・ブランヴィリエ侯爵夫人
個人情報
別名 ド・ブランヴィリエ侯爵夫人
(Marquise de Brinvilliers)
生誕 (1630-07-02) 1630年7月2日
フランス王国 パリ
死没 1676年7月16日(1676-07-16)(46歳没)
フランス王国
死因 斬首による刑死
殺人
犠牲者数 不明
フランス王国
司法上処分
刑罰 死刑
有罪判決 1676年
判決 死刑
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マリー・マドレーヌ・ドルー・ドブレーフランス語: Marie Madeleine Dreux d'Aubray, 1630年7月2日 - 1676年7月16日)は、17世紀フランス連続殺人犯シリアルキラー)。(ド・ブランヴィリエ侯爵夫人フランス語: Marquise de Brinvilliers)として知られる。

来歴

パリの司法官アントワーヌ・ドルー・ドブレー(Antoine Dreux d'Aubray)の長女として生まれる。母方の叔父に聖スルピス会創立者のジャン=ジャック・オリエ (fr) がいる。

21歳でマレ地区南東端(現在のパリ4区)内に居を構えるブランヴィリエ侯爵アントワーヌ・ゴブラン(Antoine Gobelin, marquis de Brinvilliers)に嫁いだが、愛人との派手な不倫生活をおくった。愛人と共謀して、遺産目当てに父親を毒殺するため慈善病院に熱心に通いつめ、病人相手に人体実験を繰り返して毒の効果を試した後、父親に少しずつ毒を盛って殺害した。その後、遺産を独り占めにするために兄弟たちも始末し、その娘や夫たちも狙った。しかし愛人が事故死し、自宅から犯行の記された手紙を警察に押収されたことから、国外に脱出してヨーロッパ各地を転々とし、最後に修道院に身を潜めた。そこでひっそりと生活しながら告白録を執筆したが、刑事におびき寄せられて外に出た所を逮捕された。裁判では全く罪悪感を見せなかったが、水責めでは口を割らず、火刑法廷拷問が進むとさすがに反省した。死刑を宣告され、即刻斬首刑に処された。

自白するように火刑法廷水責め拷問されるド・ブランヴィリエ侯爵夫人

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