トパル・オスマン事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/20 16:10 UTC 版)
「トルコ大国民議会護衛儀仗大隊」の記事における「トパル・オスマン事件」の解説
1920年11月12日以来、ムスタファ・ケマル・パシャの身辺警護は、ギレスン第47義勇連隊指揮官トパル・オスマン (Topal Osman Ağa)民兵中佐に任されており、ムスタファ・カプタン民兵大尉が隷下の第1大隊を指揮していた。しかし、1923年3月27日、議会の反主流派第二グループに属するアリ・シュクル・ベイ (Ali Şükrü Bey)がムスタファ・ケマル・パシャを批判した後、遺体で発見される事件が起きると、ムスタファ・ケマル・パシャは、大国民議会護衛大隊長イスマイル・ハックにトパル・オスマン・アーとその仲間の逮捕を命じた。トパル・オスマンは、セイラン・バーラルのアジトに包囲され、銃撃戦で負傷し、4月1日に拘束された。翌2日、第二グループに属する議員たちの求めに応じる形で、トパル・オスマン・アーの遺体は大国民議会 (現独立戦争博物館)の門に晒された。 また、彼の首の無い遺体がウルス広場に晒されたとも言われる。この事件を機に、護衛大隊は、チャンカヤの大統領官邸と大国民議会との双方を警護する任務を担うことになった。
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