ソルジャー_(イギー・ポップのアルバム)とは? わかりやすく解説

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ソルジャー (イギー・ポップのアルバム)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/27 04:04 UTC 版)

『ソルジャー』
イギー・ポップスタジオ・アルバム
リリース
録音 1979年8月
ロックフィールド・スタジオモンマスシャーロックフィールド村英語版
ジャンル
時間
レーベル アリスタ
プロデュース パット・モラン英語版
イギー・ポップ アルバム 年表
ニュー・ヴァリューズ
(1979年)
ソルジャー
(1980年)
パーティ
(1981年)
テンプレートを表示

ソルジャー』はアメリカ合衆国のミュージシャン、イギー・ポップの4枚目のスタジオ・アルバム。1980年2月にアリスタから発売された。

プロダクション

経緯

1979年4月にリリースされた前作『ニュー・ヴァリューズ』がアリスタの想定するチャートアクションを見せなかったことから[注 1]、アリスタでは早期に次作の制作に取り掛かるようイギーに要請し、『ニュー・ヴァリューズ』のプロモーションツアーが終わったタイミングでレコーディングを開始できるようにロックフィールド・スタジオを抑えた。時間もなかったことからプロデューサーは前作と同じくジェームズ・ウィリアムソンを指名した[注 2][4]

イギーは早期のレコーディング開始には同意したが、一方でレコーディング用のバンドメンバーが足りないという問題に直面していた。 『ニュー・ヴァリューズ』のツアー開始前に元セックス・ピストルズのベーシスト、グレン・マトロックを加入させ[注 3]、新たな作曲パートナーとして『ニュー・ヴァリューズ』ツアー中から作曲活動を始めていたが、それまでのパートナーでバックバンドのリーダーも務めていたキーボードのスコット・サーストンにツアー終了とともにバンドを離れるように伝えたところ、サーストンは自分だけでなく、ギタリストのジャッキ・クラークも連れて離脱してしまった[注 4]。そのため、ツアー後のバンドメンバーはリズムセクションしかいない状態になっており、レコーディング前にメンバーオーディションをする必要があった[4]

イギーとウィリアムソンが行ったオーディションの結果、キーボードとして元XTCのバリー・アンドリュースが加入した。ギタリストは当初、ウィリアムソンが担当する予定だった[注 5]が、実質的に音楽業界を離れていて長らくギターを弾いていなかったウィリアムソンは「自分の考えるレベルに達していない」と乗り気ではなく[3]、結果、リッチ・キッズでマトロックとバンドメイトだったスティーヴ・ニュー英語版を加入させることになった[4]

レコーディング

レコーディングは1979年8月に、ロックフィールド・スタジオで開始されたが、曲が足りず、イギーはマトロックとともに作曲作業に追われた。

当初のイギーの構想は、マネージャーのピーター・デイヴィスに全体の進行を、バンドをグレン・マトロックに仕切らせ、自分は作曲に集中するというものだったらしいが、デイヴィスが進行に手を貸すことはなく[注 6]、マトロックもリーダーとして振る舞うつもりがなかった[注 7]ため、プロデューサーのウィリアムソンが全体進行や、バンドマネジメント、アリスタからスタジオに派遣された監督役との予算折衝など細かい仕事を全て担当することになった。メジャーレーベルとの仕事が2作目に過ぎなかったウィリアムソンはこの状況にかなり強いプレッシャーを感じ、朝からウォッカを煽り、エアガンを振り回して[注 8]バンドメンバーに進行を強制するといった行動に出ることになった[4]

一方で、ウィリアムソンも「ニュー・ウェーヴ調」という注文に応えるためと称して「スタジオに装備されたレコーディング機材の48トラックを全て埋める必要がある」と主張し、メンバーに延々とオーヴァーダビング用の演奏を指示し続けた[注 9]。このため、進行は徐々に遅れていった。また、いつもメンバーミーティングをキッチンで行っていたが、その際に出されたレコーディングアイデアは、まとまった形でなければ進行を遅らせるだけと応じるとともに「そんなものはここ(キッチン)に置いとけ」と次々に却下した[4]

イギーもメンバーもウィリアムソンのこの態度に不満を感じてスタジオの雰囲気がかなり悪くなり、加えて技術面に拘り過ぎることによる進行遅延、予算超過が懸念されたため、アリスタから派遣された監督役、ジュリー・フッカーはアリスタ本社に支援を要請した。これを受けて、アリスタのアメリカ市場以外の責任者、チャールズ・レヴィンソンがデヴィッド・ボウイとパティ・スミス・グループのアイヴァン・クラールに声をかけ、ボウイにはスタジオの雰囲気を盛り上げてくれること[注 10]、クラールには進行が遅れている演奏面の補助をしてほしいと伝えた[注 11][4]

秘書のココ・シュワブを連れてスタジオを訪れたボウイは、ジョニー・ビンドン英語版という、元ギャングでその後芸能界に入りアン王女の愛人だったという噂のあった人物の話で場を盛り上げると、この話に魅了されたイギーが早速、アン王女とビンドンの関係に言及した「犯罪者になりたい(アイ・ワナ・ビー・ア・クリミナル)」というタイトルの歌詞を書き上げ、そのままレコーディングを開始しようとボウイやバンドメンバーを引き連れてレコーディングブースに入った。ウィリアムソンは当初、イギーの行動に合わせてレコーディングの準備をしたが、歌詞を聞いて「こんなものリリースできない」と反対した。これまでのウィリアムソンの態度に不満を募らせていたイギーはウィリアムソンと口論を始め、結局、レコーディングは中止となり、翌朝、ボウイは引き上げた[注 12][4]

ボウイの支援にもかかわらず、騒ぎがさらに大きくなってしまったことに加えて、同時期にロックフィールド・スタジオでレコーディングしていたシンプル・マインズ[注 13]も騒動を起こしていたために、当時のアリスタのスカウト部門の責任者、ターキン・ゴッチが事態収集のために現地に向かったが、結局、ウィリアムソンはファーストテイクがイギーの意に沿わない仕上がりとなったとして解雇され[注 14]、ロックフィールド・スタジオのハウスエンジニアだったパット・モランがプロデュースを引き継いだ[注 15]。また、演奏面でも欠けているところが多かったため、アイヴァン・クラールが改めてバンドリーダーとなって必要なパートを埋めていった[4]

こうして予算は超過したものの、期限内に『ソルジャー』のレコーディングは終了し、ニューヨークのレコード・プラント・スタジオトム・パヌンツィオ英語版に最終ミックスが任されることになった[4]

エピソード

スティーヴ・ニューは、ボウイが当時の自身の恋人で、フライング・リザーズのメンバーだったパティ・パラディンを口説いたと勘違いしてボウイを殴った。これはマトロックが認めている。イギーはこの件について、特にニューを非難するようなことはなかったという[5]。ただし、ニューはイギーに怒られるものと先走って考えて、スタジオから逃げ出してしまった。スタジオから姿を消した後もニューに声は掛かったが、結局ニューはツアーのリハーサルに姿を見せなかったため、代役として元ダムドのブライアン・ジェームズが加入した[4]

スタイル

イギーもウィリアムソンも、本作はアリスタから「ニュー・ウェーヴ調の作品として欲しい」という注文があったため、それに応えようとしたと語っている[4][3]

しかし、作曲メンバーもレコーディングメンバーもジャンルとしてはパンク(セックス・ピストルズ、パティ・スミス・グループ)かポスト・パンク(リッチ・キッズ)の分野で活躍していた面々であり、バリー・アンドリュースを除けばニュー・ウェーヴ畑と言える人材はいなかった。そのため、結果的にイギーを含むレコーディングメンバーの意図しないアレンジや最終ミックスで「ニュー・ウェーブ調」という注文に応えることになり、これがレコーディングでのウィリアムソンとメンバーとの軋轢や、本作リリース後のメンバー間での感情的な齟齬を生むことになった[注 16][注 17][4]

なお、当時のアリスタのスカウト部門の責任者、ターキン・ゴッチは「イギーと直接話したことはない」とニュー・ウェーヴ調という注文をしたことを暗に否定しているが、この発言に対し、イギーの伝記「Open Up And Bleed」では「それでは誰が『ニュー・ウェーヴ調で』と頼んだのか。」と皮肉っている[4]

リリース

1980年2月にアリスタからリリースされた。なお、アメリカ盤のみ曲の収録順が異なる[10]。 シングルカットは「ロコ・モスキート」「テイク・ケア・オブ・ミー」「ノッキン・エム・ダウン (イン・ザ・シティ)」「ドッグフード」の4曲が対象となり、2曲ずつカップリングされて発売された[注 18]このうち、「テイク・ケア・オブ・ミー」を除く3曲のビデオが制作された[13][14][15]

2000年7月にリマスター盤が発売され、ボーナストラックが2曲収録されている。後にイギーの伝記を執筆するポール・トリンカ英語版がライナーノーツを担当した[16]

日本でのリリース

海外と同時期にリリースされた。収録曲順はヨーロッパ盤と同じ[17]

1992年に他のアリスタ作品(『ニュー・ヴァリューズ』『パーティ』)とともにCDでリイシューされた[18]

リマスター盤は各国より遅れて2007年7月25日、これもまた他のアリスタ作品と同時に紙ジャケット仕様で発売されている[19]

評価

専門評論家によるレビュー
レビュー・スコア
出典 評価
オールミュージック [20]
クリストガウ・レコードガイド英語版 B+[21]
ローリング・ストーン favorable[22]

メディアによる評価

本作に対する批評家からの評価は賛否両論だった。

ポップマターズのシャーロット・ロビンソン[23]と、イギーの伝記作家ポール・トリンカは、興味深い部分が散発的にあると認めつつ「まとまりがなく、明確な全体像がない」という評価を下している[4]

一方、ローリング・ストーン誌のデビッド・フリッケは、このアルバムを好意的に評価した。トリンカが「堂々とした誇り高い声が完全に消えてしまっている」と評した本作でのイギーのヴォーカルを「恍惚とした声の高まりと切ない声の落ち込みが、彼のロックンロール・シンガーとしての劇的な成長を物語っている。」と高評価を下すとともに、「ここでの彼の熱狂的なパフォーマンスは、彼の過去の亡霊、現在の現実、そして未来の約束を繋ぐものである。」と本作が過去作品にも引けを取らない出来であると持ち上げ、併せて次回作への期待を示した[24]

チャートアクション

チャートアクションは全英アルバムチャートで最高位62位[25]ビルボード200で最高位125位[26]

ライブ・パフォーマンス

アメリカツアー(『ニュー・ヴァリューズ』ツアー)

前作『ニュー・ヴァリューズ』のアメリカ発売に伴って、プロモーションとして本作レコーディング直後に急遽アメリカツアーが実施された。スティーヴ・ニューがツアーへの同行を断ったため、メンバーは『ソルジャー』のレコーディングメンバーに、元ダムドのギタリスト、ブライアン・ジェームズ英語版を加えた顔ぶれとなった[注 19]。その結果、バックバンドにはニューヨーク・パンクロンドン・パンクの中心的なバンドにいた人物が顔を揃えることになった[注 20][4]。このツアーでは本作収録曲もリリースに先行して演奏されていることが、ライヴ音源[注 21]で確認できる。

本ツアー終了後、グレン・マトロックとブライアン・ジェームズはバックバンドを離脱した[注 22][注 23]

イギリスツアー

本作リリースに伴って2週間程度のイギリスツアーが予定されていたが、グレン・マトロックとブライアン・ジェームズにツアーの同行を断られたため、バンドマスターとなっていたアイヴァン・クラールの人脈でギタリストにロブ・デュプレイ英語版、ベーシストに元ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズ英語版のビリー・ラスをメンバーに加えて行われた[4][27]

アメリカツアー

イギリスツアー終了後にアメリカツアーを実施したが[27]、ツアー中にイギーがリズムセクションの2人(クラウス・クリューガー、ビリー・ラス)に不満を持ち、解雇してしまったため、再びアイヴァン・クラールの人脈でダギー・バウン英語版[注 24]をドラムスに採用したが、ベーシストが見つからず、急遽オーディションを実施してマイケル・ペイジを採用した[注 25]

ヨーロッパツアー・アメリカツアー

新たなリズムセクションで主にヨーロッパ大陸を巡回するツアーを実施し、さらに再度のアメリカツアーを実施した[27]。これらツアーでのメンバー変更はなく、彼らがそのまま次作『パーティ』のレコーディングメンバーとなった[4]

収録曲

Side A
# タイトル 作詞 作曲・編曲 作曲者 時間
1. 「ロコ・モスキート」     イギー・ポップ
2. 「アンビション(邦題:野心)」     グレン・マトロック
3. 「テイク・ケア・オブ・ミー」     イギー・ポップ、グレン・マトロック
4. 「ゲット・アップ・アンド・ゲット・アウト」     イギー・ポップ
5. 「プレイ・イット・セーフ」     イギー・ポップ、デヴィッド・ボウイ
6. 「アイム・ア・コンサバティヴ(邦題:保守党員)」     イギー・ポップ
Side B
# タイトル 作詞 作曲・編曲 作曲者 時間
7. 「ドッグ・フード」     イギー・ポップ
8. 「アイ・ニード・モア」     グレン・マトロック、イギー・ポップ
9. 「ノッキンゲム・ダウン」     イギー・ポップ
10. 「ミスター・ダイナマイト」     グレン・マトロック、イギー・ポップ
11. 「アイ・スナブ・ユー」     バリー・アンドリュース、イギー・ポップ
2007リマスター盤ボーナストラック
# タイトル 作詞 作曲・編曲 作曲者 時間
12. 「ロウ・ライフ」     アイヴァン・クラール、イギー・ポップ
13. 「ドロップ・ア・フック」     イギー・ポップ

参加メンバー

  • イギー・ポップ – ヴォーカル
  • グレン・マトロック – ベース、バッキングヴォーカル
  • アイヴァン・クラール – ギター、キーボード
  • クラウス・クリューガー[31] – ドラムス
  • スティーヴ・ニュー英語版 – ギター
  • バリー・アンドリューズ – キーボード
  • シンプル・マインズ – バッキングヴォーカル(「プレイ・イット・セーフ」)
  • デヴィッド・ボウイ – バッキングヴォーカル(「プレイ・イット・セーフ」)
  • ヘンリー・マグロガン[注 26] – コーラス(「ロコ・モスキート」)
  • パット・モラン[33] – プロデューサー
  • トム・パヌンツィオ英語版 – ミキシング・エンジニア、プロデューサー(「ロウ・ライフ」)
  • ピーター・ヘイデン[34] – レコーディング・エンジニア
  • ブライアン・グリフィン / ロッキング・ロシアン – ジャケット・デザイン

注釈

  1. ^ 全英アルバムチャートで最高位60位[2]
  2. ^ ウィリアムソンは当時、音楽業界から距離を置いた状態で、夜勤の仕事をしながらポモナ・カレッジで電子工学を履修していたが、学費の足しになると考えてプロデュースを引き受けた。『キル・シティ』のポストプロダクション、『ニュー・ヴァリューズ』のプロデュースも同様の理由で関わっている[3]
  3. ^ イギーとグレン・マトロックが在籍していたバンドリッチ・キッズのエージェントが同一人物(ジョン・ギディングス)で、イギーはその人物からマトロックを推薦された[5]
  4. ^ ジャッキー・クラークはサーストンに誘われてバックバンドに加わっていた。元々はアイク&ティナ・ターナーのバックバンド(アイク&ティナ・ターナー・レヴュー)のメンバーで、サーストンがアイク&ティナ・ターナー・レヴューにゲスト参加した際に知り合った[4]
  5. ^ ドラムスのクラウス・クリューガーは、レコーディング開始前のリハーサルでウィリアムソンのギター演奏を初めて生で聞く機会があり、感動したと語っている。
  6. ^ デイヴィスはこのころ薬物依存に陥っており、スタジオにはいたものの、進行管理をできるような状態ではなかった。また、本作リリース後しばらくしてイギーの下を去っている[4]
  7. ^ マトロックは、イギーからバンドリーダーを務めてほしいと言われたことはなく、成り行き上周囲がそのように思っていただけで、本人にはそのつもりがなかった[4]
  8. ^ エアガンの件について、ウィリアムソンは「グレン(・マトロック)が好んで紹介するエピソードだが、気晴らしに空き缶を撃つためにアリスタのスタッフから借りたもので、人に向けたことはなかった。」と語っている[6]
  9. ^ アイヴァン・クラールは、オーヴァーダビングに凝るウィリアムソンをイギーが「お前はフィル・スペクターか?これは俺のマスターだ!」と非難したと語っている[7]。マスターを24トラックから48トラックに移し替えているウィリアムソンを見て放った発言とされ、日本盤のライナーノーツでも言及されているが、ウィリアムソンはこのようなことは言われなかったという主旨の発言をしている[6]。イギー自身はそのような発言をしたかは肯定も否定もしていない。
  10. ^ スティーヴ・ニューはインタビューで、ボウイはウィリアムソンの代わりにプロデューサーになる予定だったと発言しているが[8]、他の関係者(イギー、ウィリアムソン、マトロック、レヴィンソン)の意見は、雰囲気を変えるためにボウイを呼んだだけ、ということで一致している。また、ニューは「ボウイはウィリアムソンのレコーディング方法について非難していた。」とも発言しているが、他の関係者の発言やイギーの伝記ではボウイのそのような行動は確認できない[4][7][3][6][5]。ウィリアムソンは「この時、ボウイとはほとんど会話をしていない。」という主旨の証言をしている[9]
  11. ^ ギタリストがもう1人ほしい、というイギーからの要望もあった[4]
  12. ^ 「犯罪者になりたい(アイ・ワナ・ビー・ア・クリミナル)」は「プレイ・イット・セーフ」とタイトルを変更して本作に収録された。ジョニー・ビンドンとアン王女に関する歌詞は削除されているが、この時にレコーディングされたボウイとシンプル・マインズのコーラスはそのまま使用されている。アイヴァン・クラールによれば、本作リリース前、たまたまボウイに会った際、歌詞の変更を知らなかったボウイから、王室蔑視で自分が非難されると困るので「プレイ・イット・セーフ」は発表しないでくれと懇願されたという[4]
  13. ^ 本作と同時期に同じロックフィールド・スタジオでセカンドアルバム『リアル・トゥ・リアル・カコフォニー』をレコーディングしていた。「プレイ・イット・セーフ」にゲスト参加したのは、ボウイが来ていると聞いて様子を見に行ったことから[4]
  14. ^ 2021年時点ではイギーが解雇したプロデューサーはウィリアムソンが最初で最後。ウィリアムソンがスタジオにいた期間は2週間程度とされている[7]
  15. ^ 本作がプロデューサーデビュー作であり、後にロバート・プラントの『ザ・プリンシプル・オブ・モーメンツ英語版』や、ルー・グラムの『レディ・オア・ノット英語版』などを手掛けている。
  16. ^ 特にマトロックは本作リリース後、自身が作詞作曲した曲「アンビション」でニューのリードギターが目立たないミックスとなっていたことに怒りを感じたと語っている。これがマトロックのバンド離脱の原因となり、その後のインタビューで「ニューがツアー参加を断ったから、イギーは意趣返しにこのようなミックスにしたのだろう。」という推測を披露していた[4]。しかし、最近のインタビューで本作について聞かれた際はそのような推測はしていない[5]
  17. ^ マトロックとは逆に、アンドリュースは自分のキーボード演奏が全て採用されていて嬉しかったと語っている[4]
  18. ^ カップリングは「ロコ・モスキート / テイク・ケア・オブ・ミー」[11]「ノッキン・エム・ダウン (イン・ザ・シティ) / ドッグフード」[12]の組み合わせ。
  19. ^ ブライアン・ジェームズ以外のメンバーはグレン・マトロック、クラウス・クリューガー、アイヴァン・クラール[27]。レコーディングメンバーだったキーボードのバリー・アンドリュースはアイヴァン・クラールと担当が被ったため参加しなかった[4]
  20. ^ アイヴァン・クラールはパティ・スミス・グループ、グレン・マトロックはセックス・ピストルズに在籍していた。
  21. ^ 『ホエア・ザ・フェイシズ・サンシャイン』など[28]
  22. ^ マトロックはこの件について、本作の最終ミックスへの不満[4]と、気がつくとイギーのパートナーがアイヴァン・クラールになっていて、バンドに参加する意義を見出せなくなったから[7]、という理由を挙げている。
  23. ^ ブライアン・ジェームズはこの件について、アメリカツアーのスケジュールがタイト過ぎたからと語っているが、アイヴァン・クラールは、これに加えて「ブライアンは、バンドメイトとしてではなく、あくまで被雇用者としてバックバンドに接するイギーの態度を不満に感じていたようだ」と証言している[7]
  24. ^ ウェールズ出身のセッション・ドラマー。この後、ラウンジ・リザーズアート・リンゼイ・トリオ[29]などに参加する。クラールとはジョン・ケイルの『サボタージュ~ライヴ1979英語版』へ参加した際に面識を得たという[4]
  25. ^ ニューヨーク・ドールズシルヴェイン・シルヴェイン英語版が結成したザ・クリミナルズを経て、チャビー・チェッカージェリー・リー・ルイスのバックバンドに在籍していた。またストゥージズを解散してロサンゼルスに住んでいた頃のイギーとは面識があった。ペイジは後に「今のバンドメンバーは外国生まればかりだから1人くらいアメリカ生まれを呼びたい。」とイギーが言い出したから、自分は演奏を聴かせていないのに合格した、と語っている[30]
  26. ^ 2021年現在、マネジメント会社セントラル・ヨーロピアン・オーガニゼーションの代表。イギーの活動全般のマネジメントを行っている[32]。リッチ・キッズのロードマネージャーだったが、バンド解散後、元メンバーのグレン・マトロックがイギーのバンドに参加した際に誘われ、以降、長くイギーのロードマネージャーを務めることになった[4][7]

脚注

  1. ^ a b c Deming, Mark. “Sodier - Iggy Pop | Songs, Reviews, Credits”. AllMusic. 2021年5月5日閲覧。
  2. ^ full Official Chart History | Official Charts Company | Iggy Pop”. オフィシャル・チャート・カンパニー. 2021年5月5日閲覧。
  3. ^ a b c d The Stooges: James Williamson Interview | Features | Clash Magazine”. Clashmusic.com (2010年3月30日). 2021年5月5日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad Paul Trynka (2007). Iggy Pop: Open Up and Bleed. https://archive.org/details/iggypopopenupble00tryn 
  5. ^ a b c d 鈴木喜之 (2018年12月7日). “グレン・マトロック インタビュー”. note.mu. 2019年4月27日閲覧。
  6. ^ a b c JAMES WILLIAMSON: THE PKM INTERVIEW!”. PLEASE KILL ME. 2019年12月22日閲覧。
  7. ^ a b c d e f Ambrose, Joe (2003年1月13日). Gimme Danger: The Story of Iggy Pop. Omnibus Press. ISBN 978-0-7119-9107-1 
  8. ^ Clean on the Dirty: An Interview With Steve New -” (5 December 2006). 5 October 2016閲覧。
  9. ^ James Williamson at the I-94 Bar”. I-94 Bar (2000年4月1日). 7 June 2018閲覧。
  10. ^ Soldier - Discogs (発売一覧)
  11. ^ Loco Mosquito / Take Care Of Me - Discogs (発売一覧)
  12. ^ Knocking em Down (In The City) - Discogs (発売一覧)
  13. ^ Iggy Pop - Loco Mosquito - YouTube
  14. ^ Iggy Pop - Knocking 'Em Down (In the City) - YouTube
  15. ^ Iggy Pop - Dog Food - YouTube
  16. ^ Soldier - Discogs
  17. ^ Soldier - Discogs
  18. ^ Soldier - Discogs
  19. ^ Soldier - Discogs
  20. ^ Deming, Mark. “Soldier – Iggy Pop | Songs, Reviews, Credits, Awards | AllMusic”. AllMusic. December 20, 2014閲覧。
  21. ^ Christgau, Robert. “Robert Christgau: CG: Iggy Pop”. robertchristgau.com. December 20, 2014閲覧。
  22. ^ Fricke, David (February 7, 1980). “[Soldier review]”. Rolling Stone. https://www.rollingstone.com/music/albumreviews/soldier-19800207 December 20, 2014閲覧。. 
  23. ^ Robinson, Charlotte (February 5, 2003). “The Weird Trilogy: Iggy Pop's Arista Recordings | PopMatters”. PopMatters. December 20, 2014閲覧。
  24. ^ Fricke, David (February 7, 1980). “Soldier – Album Reviews – Rolling Stone”. Rolling Stone. July 26, 2013閲覧。
  25. ^ full Official Chart History | Official Charts Company | Iggy Pop”. オフィシャル・チャート・カンパニー. 2021年5月5日閲覧。
  26. ^ Iggy Pop | Billboard”. ビルボード. 2021年5月5日閲覧。
  27. ^ a b c d Iggy Solo”. Concerts Wiki. 2021年7月5日閲覧。
  28. ^ Where The Faces Shine - Volume 1 - Discogs (発売一覧)
  29. ^ Aggregates 1-26 - Discogs (発売一覧)
  30. ^ Barbara Palmer (2003年5月29日). “Ziggy and Iggy”. SAN Diego Reader. 2019年4月28日閲覧。
  31. ^ Klaus Krüger | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2021年5月5日閲覧。
  32. ^ Central European Organization”. Central European Organisation Sp. z o.o.. 2020年3月20日閲覧。
  33. ^ Pat Moran | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2021年5月5日閲覧。
  34. ^ Peter Haden | ディスコグラフィー | Discogs”. Discogs. 2021年5月5日閲覧。

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