ステファン・ペイト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/02 20:05 UTC 版)
ステファン・ペイト(Stephen Pate、1964年1月25日- )は、オーストラリア・ビクトリア州出身の元自転車競技選手。
経歴
1988年、ベルギーのヘントで行われたトラックレース世界自転車選手権、プロスプリント準決勝において、前年の優勝者、俵信之をストレートで撃破。決勝でも、イタリアのクラウディオ・ゴリネッリ(後に、ゴリネッリは失格処分となる)をストレートで下し、日本勢の同種目12連覇を阻止した。
1990年春に開催された国際競輪に出場。各地で圧倒的な強さを誇った他、国際競輪グランプリでも圧勝。この強さを目の当たりにした競輪関係マスコミは、赤鬼と名づけた。同年8月、グリーンドーム前橋で開催されたトラックレース世界自転車選手権では、プロスプリントで3位。続くケイリンでも決勝へと駒を進め、ゴール寸前、プロスプリント優勝者のミカエル・ヒュープナー(ドイツ)を差しきって優勝を果たしたかに思われたが、2センターでヒュープナーを内側から押し上げたプレーが失格と判定されてしまった。
1991年、再び国際競輪に出場し、国際競輪グランプリ連覇達成。シュトゥットガルトで開催された世界選手権では、プロスプリントで3位に入った。しかし後にドーピング違反が判明し、順位を剥奪されてしまった[1][2]。だが、1992年の世界選手権(バレンシア)のプロケイリンでは、同種目3連覇を達成したヒュープナーに続き2位に入ったが[3]、スプリント、ケイリンといった短距離種目の出場は事実上、この年までとなる。
1993年、ハマール(ノルウェー)で開催された世界選手権ではタンデムスプリントに出場し2位。その後マディソンに転身し、1996年、マンチェスターで開催された世界選手権ではスコット・マグローリーとペアを組んで2位に入った。
しかし1998年、豪州選手権のマディソンで優勝しながらも、世界選手権の代表の座から外れてしまい(関連する話は、en:Charlie Walsh#Stephen Pateに述べられている)、それを契機として国際大会の舞台で活躍する機会はなくなった。
2003年に彼は家庭内暴力で懲役20ヶ月の判決を受けた[4]。
脚注
注釈
出典
- ^ “Report from the Sydney Morning Herald - 5/2/96”. autobus.cyclingnews.com. 2025年11月2日閲覧。
- ^ “Cycling: Shining return for Pate” (英語). The Independent (1992年9月2日). 2025年11月2日閲覧。
- ^ “Cycling: Shining return for Pate” (英語). The Independent (1992年9月2日). 2025年11月2日閲覧。
- ^ “Cyclisme” (フランス語). RDS (2025年10月26日). 2025年11月2日閲覧。
外部リンク
- ステファン・ペイト - サイクリングアーカイヴス
固有名詞の分類
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