スキップ・ジェイムズ
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スキップ・ジェイムズ | |
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原語名 | Skip James |
出生名 | Nehemiah Curtis James |
生誕 | |
死没 | |
ジャンル | デルタ・ブルース、カントリー・ブルース、ゴスペル・ブルース[1] |
職業 |
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担当楽器 |
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活動期間 | 1931年、1964年 - 1969年 |
レーベル |
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スキップ・ジェイムズ(本名:ニアマイア・カーティス・ジェイムズ、1902年6月9日 - 1969年10月3日 [2])は、アメリカ合衆国のデルタ・ブルースの歌手、ギタリスト、ピアニスト、ソングライターである。オールミュージックは「風変わりなギターのチューニングと不気味なファルセットのボーカルが組み合わさったジェイムズの初期の録音は、聴く者の首筋に鳥肌が立つほど凄い」と書いている[2]。
彼のギターの演奏は、オープンDマイナーのチューニングを使用し、複雑なフィンガー・ピッキングのテクニックを駆使したマイナー調の暗鬱な音色を特徴とする。ジェイムズは1931年にパラマウント・レコードで初めてのレコーディングを行なったが、世界大恐慌の時代のリリースだったこともあり、レコードの売り上げは芳しくなく、やがてその存在は忘れ去られていった。
公の場から姿を消して長い歳月が流れた後、ジェイムズは1964年にジョン・フェイヒーらブルースの愛好家たちによって再発見された。彼の存在が1950年代から1960年代初頭のブルース、フォーク・ミュージックのリバイバルの勢いづかせるのに一役を買ったのであった。ジェイムズは米国各地のフォークやブルースのフェスティバルに出演したのを始め、コンサートも行ない、複数のレーベルにアルバムのレコーディングも残している。彼の楽曲は世代を超えたミュージシャンたちに影響を与え、多くのアーティストたちに取り上げられた。彼は「ブルース界の偉大な人物の一人」として称賛されるようになった[3]。
来歴
初期
ニアマイア・カーティス・ジェイムズは1902年6月9日、ミシシッピ州ベントニア近郊の人種隔離が行なわれた病院で生まれた[4]。彼の母親フィリスはヤズーシティから南に15マイルの場所にあったウッドバイン・プランテーションで、料理人、ベビーシッターとして働いていた。彼の父親エディ・ジェイムズは密造酒製造者で、ブルース研究家のスティーヴン・カルトによると、地元の下層階級の人物であり、1907年頃家族を捨て出ていったという。彼は後に改心し、牧師になった。ジェイムズは、ギターを教わったヘンリー・スタッキーや、チャーリーとジェシー・シムズら地元ミュージシャンたちを幼い頃から聴いて育った。母親が彼に買い与えた2ドル50セントのギターが、彼にとって最初の楽器であった。ジェイムズは10代の頃にはオルガンをプレイするようになった。1919年、彼はベントニアを離れ、1929年代初頭は道路工事現場及び堤防建設現場の作業員として働いた。彼の作業員としての経験を歌った恐らく最も初期の楽曲「Illinois Blues」を書いたのはこの頃である。Dマイナー・チューニングでギターを弾くようになったのもこの頃であった[4]。
1920年代および1930年代
ほぼ1920年代を通じて、ジェイムズは密造酒製造、賭博、売春斡旋など違法な職業で稼いでいた。彼のライフスタイルは非常に「奔放」だったと言われており、1929年にテキサス州ダラスからベントニアに戻った際、地元では彼が「暴力的な死を遂げた」と言われていたことを知った。彼は、その5年前にアーカンソー州から帰郷した際にも同様の経験をしている。その1929年、彼は地元ミュージシャンのジョニー・テンプルと出会い、テンプルは彼の最初の弟子となった。23歳だったテンプルは、当時ジャクソン界隈では知られていなかったクロスノート(オープンDマイナー)・チューニングでギターを弾くことを覚え、またジェイムズの高音域のファルセットの声を習得しようとした。しかし、最終的にジェイムズに自分の自然な声で歌った方がいいと言われて諦めている[5]。ジェイムズはまた、将来のブルース・ミュージシャンのための音楽学校をジャクソンに開校し、ギター、ピアノ、そしてヴァイオリンまでも教えている[6]。
ジェイムズは地元でストリート歌手として働き続けた。1931年初頭、ジェイムズは、ジャクソンにおいてレコード店主でタレント・スカウトのH.C.スピアのオーディションを受けた。スピアは複数のブルース・パフォーマーたちをパラマウント・レコードなど様々なレコードレーベルに紹介していた[7]。このオーディションを通じて、彼はウィスコンシン州グラフトンに赴き、パラマウントのためのレコーディングを行なっている[7]。1931年の彼のレコードは戦前ブルースのレコードの中でも独特な存在であり、彼のミュージシャンとしての評価を決定づけることとなった。
この時代には珍しいことではないが、彼は様々なスタイルの音楽をレコーディングした-ブルース、スピリチュアル、他のアーティストのカバー、そしてオリジナル曲であり、しばしばジャンルや曲の出典は曖昧であった。例えば、「I'm So Glad」はアート・サイズモアとジョージ・A・リトルの1927年の楽曲「So Tired」(1928年にジーン・オースティン、ロニー・ジョンソンがレコーディングしたもの。ジョンソンのバージョンは「I'm So Tired Of Livin' All Alone」となっている。)からアイデアを得ている。ジェイムズの伝記を書いた著者、スティーヴン・カルトは何人かの音楽評論家の意見に賛同して最終的な作品としては全くオリジナルなものであるとの考えを示し、「ギター音楽におけるフィンガーピッキングの最も素晴らしいものの一つである」としている[4]。「Hard Time Killing Floor Blues」、「Devil Got My Woman」、「Jesus Is A Mighty Good Leader」、「22-20 Blues」(ロバート・ジョンソンの「32-20 Blues」の元となった曲)を含むその他のグラフトン・セッションでレコーディングされた楽曲も同様に大きな影響力を持っている[8]。ジェイムズのパラマウントからリリースされた78回転SPのオリジナル盤は、非常に少ない枚数しか現存していない。
ジェイムズのレコードが市場に出たちょうどその頃、世界大恐慌が世の中を襲った。その結果売り上げは振るわず、彼はブルースの演奏をやめて、父親の教会の聖歌隊指揮者になったのだった[7]。ジェイムズは後にバプテスト教会とメソジスト教会の牧師に任命されたが、彼が宗教活動にどの程度関与していたかはわかっていない[7]。
再発見とレガシー
その後33年の長きに渡り、ジェイムズはレコーディングを一切せず、演奏活動も時折する程度だった。彼は1960年まで、世間一般には全くの無名と言っていい状況であった。ブルース歌手でギタリストのビッグ・ジョー・ウィリアムズは、彼がミシシッピ州で殺害されて、既にこの世にいないものと考えていた[9]。1964年に三人のブルースの愛好家ジョン・フェイヒー、ビル・バース、ヘンリー・ヴェスティンがミシシッピ州トゥニカの病院で彼を発見した[10]。カルトによると、ジェイムズとサン・ハウスがほぼ同時に再発見されたことが米国におけるブルース・リバイバルの始まりとなったという[4]。
1964年7月、ジェイムズとその他の再発見されたミュージシャンたちがニューポート・フォーク・フェスティバルに出演した[7]。ブルース・プロモーターのディック・ウォーターマンが撮影したいくつかの写真がこのときのパフォーマンスを捉えており、これはジェイムズの写真としては30年以上ぶりのものであった。ジェイムズはこの出演に続いて、タコマ・レコード、メロディオン・レコード、ヴァンガード・レコードにレコーディングを行ない、死去するまで様々な形でコンサートにも出演した。彼は1969年10月3日に癌のため ペンシルベニア州フィラデルフィアで亡くなっている。67歳だった[7][11]。
ジェイムズの死去後リリースされたレコーディングの数は、存命時のものを上回っている。彼の1931年のレコーディングおよび1960年代のレコーディングやコンサートの音源は、様々な形でCD化された。彼の楽曲は、再発見された他のミュージシャンと比べ、さほど頻繁にはレコーディングされていなかったものの、イギリスのロックバンド、クリームはジェイムズの「I'm So Glad」をレコーディングし、1万ドルもの臨時収入を彼にもたらした[3][2]。これに続き、クリームによるアレンジが他のグループにもレコーディングされるようになった。ジェイムズの「22-20」はイギリスのグループ22-20ズの名前の元となった。イギリスのポストロック・バンド、ホープ・オヴ・ザ・ステイツは部分的にジェイムズの人生について歌った楽曲「Nehemiah」をリリースし、英国シングル・チャートの30位を記録している[12]。ジェイムズのオリジナルの78回転SP盤で現存するものは15枚のみであり、コレクターの間で 人気が出る結果となっている[13]。
2004年、ヴィム・ヴェンダースはマーティン・スコセッシがプロデュースする「ザ・ブルース ムーヴィー・プロジェクト」シリーズの2作目として「The Soul Of A Man」の監督を務め、この中でブラインド・ウィリー・ジョンソン、J.B.ルノア、そしてジェイムズの音楽に焦点を当てている[14]。1960年代以前にジェイムズが映像撮影されたことがなかったため、キース・B・ブラウンがこのドキュメンタリーの中で、若き日のジェイムズを演じた。ジェイムズの楽曲「Hard Time Killing Floor Blues」は2000年の映画「オー・ブラザー!」の中でフィーチャーされ、映画のサウンドトラックにも収録された[15]。
ジェイムズはディオンが2007年にリリースしたブルース・アルバム『Son Of Skip James』のインスピレーションとなった。このアルバムはビルボードのアルバム・チャートの4位まで上っている[16][17]。
ジェイムズの故郷のミシシッピ州ベントニアに、ミシシッピ・ブルース・トレイルの標識が設置されている。またジェイムズは、1992年にはブルース・ファウンデーション主宰のブルースの殿堂入りをしている[18]。
2020年にジェイムズの楽曲「Devil Got My Woman」はグラミーの殿堂に加えられた[19]。
人格
ジェイムズはよそよそしく、気難しい性格であったと言われている[20]。音楽学者のディック・スポッツウッドは「スキップ・ジェイムズはどんな人かわからない存在でした。スキップは、その時の気分次第で太陽にもなり、雷にもなりました」とコメントしている[20]。
音楽のスタイル
楽器
ジェイムズが1931年のセッションで使用したギターについて、12弦のステラ・ギターに6弦ギターとして弦を張ったものとするのが定説である。彼が1960年代に再発見された際、彼は通常はギブソンJ-185、ギブソンJ-45、マーティンD-18、マーティンD-28といったギターを使用していた[21]。
ギタリストとしてのジェイムズ
ジェイムズはしばしばオープンDマイナー・チューニング(D-A-D-F-A-D)でギターを弾き、それが1931年のレコーディングの「ディープな」サウンドにつながったという。彼はこのチューニングは、彼のギターの師であったブルースマン、ヘンリー・スタッキーから学んだという(彼はレコーディングが残っていない)[22]。彼は、それを第一次世界大戦時にバハマ人の兵士から教わったとされるが、彼自身の軍隊の記録カードによると彼は海外に駐留していない。ロバート・ジョンソンもこのチューニングを使用してレコーディングをしている。彼の「Hell Hound On My Trail」はジェイムズの「Devil Got My Woman」を元にした楽曲だが、この曲にこのチューニングが使われている[2]。ジェイムスのクラシック音楽に通じたフィンガーピッキングのスタイルは、ギターの全音域を使い、重厚で催眠的なベースラインを伴って、速くて明瞭であった。彼の演奏スタイルは、故郷ミシシッピ州のデルタ・ブルースよりも、東海岸のピードモント・ブルースとの共通点が多かった。
ベントニア・スクール
ジェイムズは、ブルース・ミュージックのサブジャンル、またはその演奏スタイルのいずれかであるベントニア・スクールに関連付けられることがある。1994年に発行されたジェイムズの評伝「I'd Rather Be The Devil: Skip James and the Blues(悪魔になった方がましだ:スキップ・ジェイムズとブルース)」の中でスティーヴン・カルトが述べたところによると、ベントニア発祥のブルースのスタイルは存在せず、ベントニア・スクールは鉄道が小さな町どうしを結んでいた20世紀初頭にミシシッピ州の地域性を過大評価した後世のブルース・ライターたちの考えに過ぎないという。カルトによると、これらのライターたちは、ベントニアのブルースマン、ジャック・オーウェンズの場合、「彼が生み出した『伝統』は、主にジェイムズのテーブルから得た音楽の断片で構成されていた」ことに気づかなかったという。オーウェンズおよびジェイムズの世代であったと思われる人々は、1960年代にブルースに対する大衆の関心が再燃するまでレコーディングを経験することはなかった。これらのミュージシャンの作品が「スクール」を構成していたかどうか、またジェイムズがそれを始めたのか、あるいはジェイムズ自身がその一員であったのかは、わからずじまいである。ベントニア・スクールの創始者と繋がる最後の生き残りの一人は、ミシシッピ州ベントニアにあるブルー・フロント・カフェのオーナー、ジミー・"ダック"・ホームズだ。ホームズはヘンリー・スタッキーから直接このスタイルを学んだ。スタッキーはジェイムズとオーウェンズを指導したと伝えられている。そのため、ダックは「最後のベントニア・ブルースマン」と呼ばれている[23]。
ディスコグラフィー
パラマウント・レコードSP盤 (1931年)
A面 | B面 |
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「Cherry Ball Blues」 | 「Hard Time Killing Floor Blues」 |
「22-20 Blues」 | 「If You Haven't Any Hay Get on Down the Road」 |
「Illinois Blues」 | 「Yola My Blues Away」 |
「How Long 'Buck'」 | 「Little Cow and Calf Is Gonna Die Blues」 |
「Devil Got My Woman」 | 「Cypress Grove Blues」 |
「I'm So Glad」 | 「Special Rider Blues」 |
「Four O'Clock Blues」 | 「Hard Luck Child」 |
「Jesus Is a Mighty Good Leader」 | 「Be Ready When He Comes」 |
「Drunken Spree」 | 「What Am I to Do」 |
後年のレコーディング (1964–1969年)
健康状態が芳しくなかったにもかかわらず、ジェイムズは1964年から1969年の間に複数のLPをレコーディングしている。そこで演奏した楽曲の多くは彼の1931年のレコーディングの再演、あるいはトラディショナル、スピリチュアルの楽曲であったが、彼の病気やそこからの回復について新たに書かれたブルースの楽曲も含まれていた。多作だったこの5年間の活動は網羅的に集約されているとは言えず、(幾度となく利用され、再発されてきた)ジェイムズのLPに収録されなかったレコーディング、アウトテイク、インタビューの数々は零細レーベルの多くのコンピレーション・アルバムに散らばってリリースされている。オリジナル・レコーディングと再発盤を以下にリストアップする:
- 1964年 『Greatest Of The Delta Blues Singers』 (Melodeon, Biograph)
- 1996年 『She Lyin'』 (Adelphi, オリジナルリリースはGenes)
- 1966年 『Today!』 (Vanguard)
- 1968年 『Devil Got My Woman』 (Vanguard)
- 1978年 『I'm So Glad』 (Vanguard)
- 1994年 『Live: Boston, 1964 & Philadelphia, 1966』 (Document)
- 1994年 『The Complete Early Recordings of Skip James – 1930』 (Yazoo)
- 1996年 『Skip's Piano Blues』(Genes)
- 1998年 『Blues From The Delta』 (Vanguard) ※未発表曲2曲入り
- 1999年 『The Complete Bloomington, Indiana Concert, March 30, 1968』 (Document)
- 1999年 『Skip's Guitar Blues』 (Genes)
- 2003年 『Studio Sessions: Rare and Unreleased』 (Vanguard)
- 2003年 『Hard Time Killing Floor Blues』 (Biograph)
- 2003年 『Heroes Of The Blues: The Very Best of Skip James』 (Shout!)
- 2003年 『Hard Time』 (Universe)
- 2004年 『Cypress Grove Blues』 (Complete Blues)
- 2005年 『Hard Time Killin' Floor』 (Yazoo)
脚注
- ^ From Satan to Jesus Skip James Guitarplayer.com 2024年11月26日閲覧
- ^ a b c d Cub Koda. “Skip James: Biography”. AllMusic.com. 2025年9月10日閲覧。
- ^ a b “'Blues' Out of Rhythm: Infinitely Rich Subject Matter Suffers from a Lack of a Thematic Line in the Hands of Seven Directors – Though Wim Wenders Gets It Right”. Pqasb.pqarchiver.com (2003年9月28日). 2013年1月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年12月30日閲覧。
- ^ a b c d Stephen Calt (1994). I'd Rather Be the Devil: Skip James and the Blues. Da Capo Press. p. 88. ISBN 978-0-306-80579-0
- ^ Stephen Calt (August 21, 1994). I'd Rather Be the Devil: Skip James and the Blues. Chicago Review Press. p. 122. ISBN 1569769982 2025年9月10日閲覧。
- ^ Stephen Calt (1994-08-21). I'd Rather Be the Devil: Skip James and the Blues. Chicago Review Press. p. 124. ISBN 1569769982 2025年9月10日閲覧。
- ^ a b c d e f Tony Russell (1997). The Blues: From Robert Johnson to Robert Cray. Dubai: Carlton Books. p. 123. ISBN 1-85868-255-X
- ^ Robert Palmer (1982). Deep Blues. Penguin Books. p. 116. ISBN 978-0-14-006223-6
- ^ Calt, Stephen (1994-08-21). I'd Rather Be the Devil: Skip James and the Blues. Chicago Review Press. p. 12. ISBN 1569769982 2022年9月4日閲覧。
- ^ Colin Larkin, ed (1995). The Guinness Who's Who of Blues (Second ed.). Guinness Publishing. p. 197/9. ISBN 0-85112-673-1
- ^ “Nehemiah Skip James: Mississippi Blues Musician”. Mississippi Writers, Musicians, Actors, and Artists (1902年6月9日). 2019年9月10日閲覧。
- ^ David Roberts (2006). British Hit Singles & Albums (19th ed.). London: Guinness World Records. p. 259. ISBN 1-904994-10-5
- ^ Amanda Petrusich (2009年7月8日). “They've Got Those Old, Hard-to-Find Blues”. NY Times. 2025年9月10日閲覧。
- ^ “Festival de Cannes: The Soul of a Man”. Festival-cannes.com. 2015年3月20日閲覧。
- ^ Evan Cater. “O Brother, Where Art Thou? [Original Soundtrack – Various Artists]”. AllMusic. 2025年6月7日閲覧。
- ^ “Dion”. Billboard.com. 2022年8月14日閲覧。
- ^ “'The Wanderer' Has Got the Blues”. NPR.org. (2007年12月29日)
- ^ “Skip James”. Mississippi Blues Trail. 2025年9月10日閲覧。
- ^ Jon Blistein (2020-01-21). “Elton John, Public Enemy, Joni Mitchell Recordings Added to Grammy Hall of Fame”. Rolling Stone 2020年8月17日閲覧。.
- ^ a b Bill Dahl (1997). 'D.C. Blues: The Library of Congress Recordings, Vol. 1 (Fuel 2000 Records)のライナーノーツ
- ^ “How do you play like Skip James?”. Freshtakepublishers. 2022年9月4日閲覧。
- ^ Edward Komara (2006). Encyclopedia of the Blues. Routledge. pp. 505
- ^ J. D. Nash (2016年6月16日). “Jimmy "Duck" Holmes - Treats Us to "It Is What It Is"”. Americanbluesscene.com. 2019年1月11日閲覧。
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