シャルル・ド・ラ・フォッスとは? わかりやすく解説

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シャルル・ド・ラ・フォッス

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 07:10 UTC 版)

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シャルル・ド・ラ・フォッス
Charles de La Fosse
画) イアサント・リゴー
(版画) Gaspard Duchange
生誕 1636年6月15日
パリ
死没 1716年12月13日
パリ

シャルル・ド・ラ・フォッス(Charles de La Fosse、姓はDelafosseとも、1636年6月15日 - 1716年12月13日)はフランスの画家である。

略歴

パリで生まれた[1]。少年時代からルイ14世の筆頭宮廷画家、シャルル・ルブランの工房で働いた。1650年代にはルブランのもとでパリの神学校(Priesterseminar St. Sulpice)やランベール館(Hôtel Lambert)の装飾画を描いた[2]。ルブランの推薦でイタリアへの留学でき、1658年から1663年までイタリアに滞在し、1660年まではローマで、巨匠たちの作品を研究し、その後、パルマヴェネツィアに滞在した。

フランスに帰国後、ルブランのもとでパリのテュイルリー宮殿(19世紀末に焼失)やベルサイユ宮殿の装飾画の仕事をした。1673年に王立絵画彫刻アカデミーの会員に選ばれ、翌年、パリのエコール・デ・ボザールの教授に任命された。

1689年から1692年の間、イギリスの衣服長官の初代モンタギュー公爵に依頼されてイギリスに渡り、モンタギュー・ハウスの再建にかかわった。1690年にシャルル・ルブランが亡くなった後、オテル・デ・ザンヴァリッドを完成させていた有力な建築家のジュール・アルドゥアン=マンサールはルブランの後任としてド・ ラ・フォッスをフランスに呼び戻し装飾画の仕事を依頼した。アルドゥアン=マンサールの推薦によって1702年に王立絵画彫刻アカデミーの学部長になった。その後も多くの装飾画を描いた。

作品

脚注

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  1. ^ Encyclopædia Britannica 1911
  2. ^ Valérie Bougault, « Charles de La Fosse, le maître des Lodernes : l’oeil de Clémentine Gustin-Gomez », Connaissance des Arts, no 648, avril 2007, p. 68-73

参考文献

  • "Dictionnaire de la peinture française Larousse", Paris, 1989, korrigierte Auflage 1991, Librairie Larousse, ISBN 2-03-740011-X.



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