グレートミル爆発事故
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/31 23:30 UTC 版)
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グレートミル爆発事故のイラスト
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日付 | 1878年5月2日 |
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時刻 | 現地時間午後7時頃 |
場所 | アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス |
座標 | 北緯44度58分45秒 西経93度15分24秒 / 北緯44.97917度 西経93.25667度座標: 北緯44度58分45秒 西経93度15分24秒 / 北緯44.97917度 西経93.25667度 |
種別 | 工場災害 |
原因 | 粉塵爆発 |
死者 | 18人 |
グレートミル爆発事故(グレートミルばくはつじこ)、またはウォッシュバーンA製粉工場爆発事故は、1878年5月2日にアメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリスで発生した爆発事故である。この事故により18名が死亡した。
この事故は、当時世界最大の製粉工場であったウォッシュバーンA製粉工場内において、貯蔵されている小麦粉の粉塵爆発が原因で発生した。爆発により、製粉工場内にいた14名の労働者が死亡した。その後発生した火災が近隣の複数の製粉工場を破壊し、さらに4名の製粉工場労働者が死亡した。この破壊は、同市の主要産業であった小麦粉の生産能力に深刻な打撃を与えた。爆発後、製粉工場の所有者カドワラダー・C・ウォッシュバーンは、ウィリアム・デ・ラ・バレの設計による新しい製粉工場を跡地に建設した。現在その建造物は国家歴史的建造物に指定され、ミルシティ博物館の一部として運営されている。
背景
1874年、ウィスコンシン州ラクロス出身の事業家カドワラダー・C・ウォッシュバーンがミネアポリスにウォッシュバーンA製粉工場を開設した。開設当時、7階建てであった同工場は市内最大の工業建築物であり、世界最大の製粉工場であった。1878年には約200名の従業員を擁し、市内有数の雇用を創出していた。ミシシッピ川セントアンソニー滝近くの沿岸には、この製粉工場をはじめ複数の製粉工場が建ち並んでいた。動力源は建物の下層階を流れる人工水路から得ていた。当時ミネアポリスは米国における小麦粉生産の中心地であり、生産能力においてセントルイスやバッファローなどの都市を追い抜いたばかりであった[1]。 ミネアポリスは通称「小麦粉の都(Flour City)」と呼ばれていた[2]。
爆発
1878年5月2日午後6時頃、製粉工場の昼勤の大半の従業員がその日の仕事を終え、14名の従業員が夜勤に就いた。午後7時頃、数秒間隔で3度の大きな爆発が発生し、工場内部にいた14名の従業員全員が死亡した[1]。爆発で吹き飛ばされた破片は数百フィート上空まで達し[1][3]、工場から8ブロック離れた場所では花崗岩の大きな欠片が発見された[2]。爆発音は工場から10マイル (16 km) 離れたセントポールまで届き、爆発による振動はミネアポリスの人々が地震と勘違いするほどであった[2]。爆発は火災を引き起こし、隣接するダイヤモンド工場とフンボルト工場にも延焼した。両工場も爆発し、工場オーナーのジャック・ライスマンを含む4名の労働者が死亡した。火災の猛熱により消防隊員は建物に近づくことができず消防活動が阻害されたため、消火活動は夜通し続いた。最終的に6つの製粉工場が破壊された[4]。
翌日、地元紙ミネアポリス・トリビューンはこの惨事を「ミネアポリスは災難に見舞われた。その突然さと恐ろしさは、理解しがたいほどである」と報じた[1]。
事故の影響

製粉工場長ジョン・A・クリスチャンは、災害の原因は建物内の小麦粉粉塵による粉塵爆発であったと述べた。ミネソタ大学のS・F・ペックハム教授とルイス・W・ペック教授は、小麦粉粉塵の燃焼に関する対照実験を行い、大量の小麦粉粉塵が爆発の原因であったことを後に確認した。彼らは、石臼が擦れ合って発生した火花が粉塵に引火し爆発を引き起こしたと結論づけた[1]。
この事故後、市の製粉産業への影響が危惧された。災害により市の小麦粉生産能力の約3分の1から2分の1が消失したためである[1][注釈 1]。爆発直後、事故の報を受けてミネアポリスに駆けつけたウォッシュバーンは、製粉工場を再建する意向を表明した。これは技術改良により安全性を高め、生産能力を向上させる計画であった。ウォッシュバーンはオーストリア人技師ウィリアム・デ・ラ・バレを雇い、ブダペストの製粉工場をモデルにした新工場の設計を依頼した[5]。デ・ラ・バレは集塵装置の設置と換気システムの改良も行った[5]。この新工場は1880年、旧工場跡地に完成した[1]。再稼働は都市の好景気と時期を同じくし、小麦粉生産量は第一次世界大戦中にピークを迎えるまで着実に増加したが、その後は斜陽となった[1]。新製粉工場は1928年に火災に見舞われたが修復されその後も営業を続けたものの、1960年代までに輸送や関税などの変化によって小麦粉産業の中心がミネアポリスから移動したため、1965年に閉業した[1][5] 。
1983年、製粉工場はアメリカ合衆国国家歴史登録財の国家歴史的建造物に指定された[5]。閉業後放棄されていた製粉工場建屋は、1991年の火災で完全に廃墟となった[1]。2003年、廃墟はミルシティ博物館とミル遺跡公園へと生まれ変わった。この歴史博物館はミネアポリスの製粉業史に焦点を当てている[1]。
ミネソタ州歴史協会が作成した百科事典『MNopedia』は、この災害の項目において「同市史上最悪の災害であり、その後の製粉工場建設における大規模な安全対策の強化を促した」と記している[1]。ゼネラルミルズ(製粉工場の後継企業)によれば、この災害を契機にウォッシュバーンは被災した工場労働者の子供たちの福祉に関心を持ち、ウォッシュバーン記念孤児院の創設につながった[6]。その後継組織であるウォッシュバーン児童センターは、現在もツインシティ地域で児童・家族支援機関として活動している[6]。
記念碑

破壊された工場跡地には、亡くなった14名の労働者の名前を刻んだ石造りの記念碑が、石門の一部として建立された[4]。この記念碑はストーンアーチ橋の近くにある[4]。
この製粉工場は1879年に建設された。ここはかつてウォッシュバーンA製粉工場があった地であり、同製粉工場は1878年5月2日、火災と小麦粉の粉塵が急速に燃焼したことに起因する凄まじい爆発により全壊した。石1つ残らず崩れ落ち、製粉工場にいた者は全員即死した。—新製粉工場に建立された記念碑の銘文[4]
ミネアポリス市内にあるレイクウッド墓地には、災害で亡くなった18名を追悼する記念碑が1885年に建立された。記念碑には犠牲者の名前を刻んだ銘板が掲げられ、基部には麦の束、壊れた歯車、製粉用の石臼が彫刻されている[1]。
関連項目
- トレードストン製粉工場爆発事故 – 1872年にグラスゴーで発生した同様の粉塵爆発事故。
注釈
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m Nathanson, Iric (2021年7月9日). “Washburn A Mill Explosion, 1878”. MNopedia. 2021年11月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月31日閲覧。
- ^ a b c Thuras, Dylan (2013年1月14日). “Mill City Museum and site of "The Great Mill Disaster"”. Atlas Obscura. 2021年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月31日閲覧。
- ^ “Deadliest Workplace Accidents”. PBS (2011年). 2022年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e Brandt, Steve (2011年9月21日). “What the 35W bridge memorial doesn't say”. Star Tribune. 2022年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月31日閲覧。
- ^ a b c d e “Building History”. Minnesota Historical Society. 2022年3月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月31日閲覧。
- ^ a b “The explosion that changed milling”. General Mills (2012年5月2日). 2022年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月31日閲覧。
関連文献
- Nathanson, Iric (2013年6月6日). “Looking back at the 1878 Washburn A Mill explosion”. MinnPost. 2020年11月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年8月31日閲覧。
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