カッダロール包囲戦 (1748年)とは? わかりやすく解説

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カッダロール包囲戦 (1748年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/12 18:40 UTC 版)

カッダロール包囲戦
戦争第一次カーナティック戦争
年月日1748年6月17日
場所ムガル帝国カッダロール
結果:グレートブリテン王国の勝利
交戦勢力
グレートブリテン王国 フランス王国
指導者・指揮官
ストリンガー・ローレンス英語版 ジョゼフ・フランソワ・デュプレクス
ベルトラン=フランソワ・マエ・ド・ラ・ブルドンネ英語版
戦力
400人 ヨーロッパ人800
現地人1,000
損害
軽微 甚大

カッダロール包囲戦(カッダロールほういせん、英語: Siege of Cuddalore)は第一次カーナティック戦争中の1748年6月17日ムガル帝国カッダロールで行われた戦闘。

イギリス艦隊がマドラスを襲撃するために出港すると、フランスのジョゼフ・フランソワ・デュプレクスベルトラン=フランソワ・マエ・ド・ラ・ブルドンネ英語版とともにカッダロールへの再攻撃を試みようとした[1]。ヨーロッパ人800人とセポイ1,000人の軍勢を集めると、デュプレクスはポンディシェリーから出発、6月17日朝にバンダポラム(Bandapolam)の山に到着した。デュプレクスはカッダロールを奇襲で攻略しようと考えたため、軍勢を夜まで待機させた。フランス軍進軍の警告を事前に受けたストリンガー・ローレンス英語版大尉(ローレンスは1748年1月にインドに到着、イギリス東インド会社軍の指揮を執るとともに会社のコロマンデル海岸におけるはじめての正規軍大隊を組織した)は400人以下の軍勢でそれを阻止した。彼はまず、駐留軍を城外に出し、大砲をセント・デイヴィッド砦英語版に運び出した。これによりフランス軍はイギリス軍がカッダロールを放棄するつもりだと誤認した。

しかし、ローレンスは夜に駐留軍と大砲をカッダロール城内に戻した。真夜中にフランス軍が攻撃をはじめ、攻城梯子を城壁にかけようとすると、駐留軍のマスケット銃と大砲による激しい攻撃を受けて進軍が停止した。その後、フランス軍が混乱に陥り、大損害を受けてポンディシェリーに退却した。

脚注

  1. ^ マドラスの戦いで本拠地のマドラスを占領されたイギリスはカッダロールに移っていた。

参考文献

  • Williams, William Freke; Stafford, William Cooke (1863) (英語). England’s Battles by Sea and Land: History of England’s campaigns in India and China; and of the Indian mutiny, 1857-1859. 3. London: New York, Printing and publishing company. pp. 33-37 



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