エレナ・イヴァノヴナ_(ポーランド王妃)とは? わかりやすく解説

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エレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/24 20:03 UTC 版)

エレナ・イヴァノヴナ
Елена Ивановна
Helena Moskiewska
ポーランド王妃
エレナ(右側)とその夫アレクサンデル
在位 1501年 - 1506年

出生 1476年5月19日
ロシアクレムリン
死去 (1513-01-20) 1513年1月20日(36歳没)[1]
リトアニア大公国ブラスラウ
埋葬 リトアニア大公国ヴィリニュス、テオトコス聖堂
結婚 1495年2月15日 ヴィリニュス、テオトコス聖堂
配偶者 ポーランドアレクサンデル
家名 リューリク家
父親 モスクワ大公イヴァン3世
母親 ゾエ・パレオロギナ
宗教 キリスト教正教会
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エレナ・イヴァノヴナロシア語表記: Елена Ивановна / ポーランド語表記: Helena Moskiewska, 1476年5月19日 - 1513年1月20日)は、リトアニア大公で後にポーランド王を兼ねたアレクサンデルの妃。モスクワ大公イヴァン3世の長女、母はモレアス専制公ソマス・パレオロゴスの娘でビザンツ皇族出身のゾエ・パレオロギナ

生涯

1492年、イヴァン3世がリトアニアに侵入してヴャジマなどを占領すると、即位後まもないリトアニアの統治者アレクサンデルは、イヴァンとの同盟による平和的解決を望んだ。このためアレクサンデルとイヴァンの娘エレナの結婚が計画され、エレナは1495年にヴィリニュスのテオトコス聖堂で、モスクワ府主教マカリイの立会いのもと、アレクサンデルと結婚した。エレナはポーランド王妃に求められるカトリックへの改宗をしないまま、結婚後も正教を信奉していた。このためポーランド王妃としては正式に戴冠せず、称号のみを帯びていた。

エレナは少なくとも二度の妊娠と流産(1497年、1499年)を経験した。1513年に彼女が死ぬと、ミコワイ・ラジヴィウによって毒殺されたのだという噂が立ったという。エレナの遺骸はテオトコス聖堂に埋葬された。ビザンツ皇帝の血を引くポーランド王妃には、他にルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガ(同じアンドロニコス2世の直系子孫)がいる。

脚注




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