エレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > エレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃)の意味・解説 

エレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/26 15:29 UTC 版)

エレナ・イヴァノヴナ
Елена Ивановна
Helena Moskiewska
ポーランド王妃
エレナ(右側)とその夫アレクサンデル
在位 1501年 - 1506年

出生 1476年5月19日
ロシアクレムリン
死去 (1513-01-20) 1513年1月20日(36歳没)[1]
リトアニア大公国ブラスラウ
埋葬 リトアニア大公国ヴィリニュス、テオトコス聖堂
結婚 1495年2月15日 ヴィリニュス、テオトコス聖堂
配偶者 ポーランドアレクサンデル
家名 リューリク家
父親 モスクワ大公イヴァン3世
母親 ゾエ・パレオロギナ
宗教 キリスト教正教会
テンプレートを表示

エレナ・イヴァノヴナロシア語表記: Елена Ивановна / ポーランド語表記: Helena Moskiewska, 1476年5月19日 - 1513年1月20日)は、リトアニア大公で後にポーランド王を兼ねたアレクサンデルの妃。モスクワ大公イヴァン3世の長女、母はモレアス専制公ソマス・パレオロゴスの娘でビザンツ皇族出身のゾエ・パレオロギナ

生涯

1492年、イヴァン3世がリトアニアに侵入してヴャジマなどを占領すると、即位後まもないリトアニアの統治者アレクサンデルは、イヴァンとの同盟による平和的解決を望んだ。このためアレクサンデルとイヴァンの娘エレナの結婚が計画され、エレナは1495年にヴィリニュスのテオトコス聖堂で、モスクワ府主教マカリイの立会いのもと、アレクサンデルと結婚した。エレナはポーランド王妃に求められるカトリックへの改宗をしないまま、結婚後も正教を信奉していた。このためポーランド王妃としては正式に戴冠せず、称号のみを帯びていた。

エレナは少なくとも二度の妊娠と流産(1497年、1499年)を経験した。1513年に彼女が死ぬと、ミコワイ・ラジヴィウによって毒殺されたのだという噂が立ったという。エレナの遺骸はテオトコス聖堂に埋葬された。ビザンツ皇帝の血を引くポーランド王妃には、他にルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガ(同じアンドロニコス2世の直系子孫)がいる。

脚注




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「エレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃)」の関連用語

エレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



エレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのエレナ・イヴァノヴナ (ポーランド王妃) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS