エリー・ドゥカズ
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初代グリュックスボー公 エリー・ドゥカズ Élie Decazes |
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第4代フランス首相 | |
任期 1819年11月19日 – 1820年2月20日 |
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君主 | ルイ18世 |
前任者 | ジャン=ジョセフ・デソル |
後任者 | アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシ |
個人情報 | |
生誕 | 1788年9月28日![]() |
死没 | 1860年10月24日(72歳没)![]() |
配偶者 | エリザベート・フォルテュネ・ミュレール(Elisabeth-Fortunée Muraire) ヴィレルミーヌ・ド・サン=トレール(Wilhelmine de Saint-Aulaire) |
子供 | ルイ フレデリック アンリエット |
署名 | ![]() |
初代ドゥカズ公爵および初代グリュックスボー公爵エリー・ルイ・ドゥカズ(Élie Louis Decazes, 1788年9月28日 - 1860年10月24日)は、フランスの王党派政治家。復古王政期に首相を務めたが、ベリー公シャルル暗殺事件をきっかけに失脚した[1]。
略歴
ジロンド県サン=マルタン=ド=レーで生まれた[1]。法律を学び、1806年にセーヌ県で裁判官になった後、1807年にルイ・ボナパルトの顧問に任命され、1811年にパリ控訴院の法律顧問(avocat-conseil)に就任した[1]。
1814年の王政復古にあたり自身が王党派であると宣言し、1815年の百日天下期にもブルボン朝を支持し続けた[1]。ジョセフ=ドミニク・ルイ男爵の紹介で国王ルイ18世に謁見し、ルイ18世は1815年7月7日にドゥカズをパリ警察庁長官に任命した[1]。ドゥカズの働きを見たルイ18世は同年9月24日にドゥカズをジョゼフ・フーシェの後任として警察大臣に任命した[1]。警察大臣としてユルトラ(超王党派)による反乱扇動に対処した[1]。
1815年8月フランス代議院選挙でセーヌ県から代議院議員に選出され、穏健王党派の指導者になった[1]。このとき、穏健王党派は少数派であったが、ドゥカズはルイ18世を説得して議会を解散させ、1816年10月の総選挙で議会多数を勝ち取った[1]。
1818年にリシュリュー公爵が首相を辞任すると、デソル侯爵が後任になったが、内務大臣に就任したドゥカズが実質的に内閣を率いたとされる[1]。この内閣ではルイ男爵が財務大臣を、ローラン・グーヴィオン=サン=シールが陸軍大臣を務めており、自由主義的とされた[1]。そのため、デソル内閣期に警察大臣職が撤廃されたが、自由主義の改革はユルトラが多数を占める貴族院で反対され、ドゥカズはその対処としてルイ18世に働きかけ、改革を支持する人物60名を貴族に叙させた[1]。このほかにも新聞の検閲を廃止し、工業を保護し、公共事業に力を入れた結果、景気が回復した[1]。
ドゥカズの自由主義的な政策は五国同盟に警戒され、特に1819年フランス代議院選挙で革命政治家アンリ・グレゴワールが当選すると、アーヘン会議での秘密協定に基づく介入が検討されるに至った[1]。外国からの介入の脅威に直面したルイ18世はグレゴワール当選のような「不祥事」が二度と起こらないよう選挙法を改正させたが、デソルとルイが反発して1819年11月に辞任し、ドゥカズが首相に就任した[1]。もっとも、選挙法改正は急進派を憤慨させた一方、ユルトラとの融和をもたらさず、ドゥカズは「新たなセイヤヌス」、「現代のカティリナ」と政敵に攻撃された[1]。1820年2月13日、アルトワ伯(後のシャルル10世)の次男ベリー公シャルルが暗殺された事件が起こると、ドゥカズが共犯者であるとする根も葉もない噂が流れ、ドゥカズは首相を辞任した[1]。ルイ18世はドゥカズを慰留しようとしたが、結局17日に辞任を受け入れた[1]。
ドゥカズは体のいい追放として在イギリスフランス大使に転出したのち、1821年12月に帰国して貴族院議員に就任した[1]。貴族院では引き続き自由主義を支持し、1830年の七月革命以降は七月王政を支持したが、1848年のフランス革命以降は政界を引退した[1]。
1818年、デンマーク王フレゼリク6世によってデンマーク貴族グリュックスボー公爵(hertug af Glücksborg)の称号を授けられた。これはエリーの2度目の妻ヴィレルミーヌがナッサウ=ザールブリュッケン侯ヴィルヘルム・ハインリヒの子孫であった縁からである。ヴィレルミーヌの伯母であるアンナ・カロリーネはシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フリードリヒ・ハインリヒ・ヴィルヘルムの未亡人で、子が授からず、姪ヴィレルミーヌの後見を務めていた。アンナ・カロリーネは姪のために、当時伯爵でフランス貴族であったドゥカズとの良縁を望んだ。そして姪の将来の配偶者に公爵の称号が得られるよう、デンマーク王に働きかけたのである。
1822年2月20日にフランス貴族ドゥカズ公爵(Duc Decazes)となった。
アヴェロン県の石炭、鉄鉱業の発展に貢献し、1829年にその中心地がドゥカズ公爵を記念してドゥカズヴィルと名付けられた[1]。
1860年10月24日に死去した[1]。
息子ルイ・ドゥカズは第三共和政期に政治家になり、外務大臣を務めた[1]。
出典
外部リンク
- エリー・ドゥカズの著作 - インターネットアーカイブ内のOpen Library
- ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『ドカーズ公』 - コトバンク
公職 | ||
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先代 ジョゼフ・フーシェ |
警察大臣 1815年 – 1818年 |
次代 シャルルマーニュ・ド・モーパス |
先代 ジョセフ・レーヌ |
内務大臣 1818年 – 1820年 |
次代 ジョセフ・ジェローム・シメオン |
先代 デソル侯爵 |
フランスの首相 1819年 – 1820年 |
次代 リシュリュー公爵 |
外交職 | ||
先代 ラ・トゥール=モーブル侯爵 |
在イギリスフランス大使 1820年 – 1821年 |
次代 グラモン公爵 |
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