イヴァーン・ムィコライチューク
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イヴァーン・ヴァスィーリョヴィチ・ムィコライチューク
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Іван Васильович Миколайчук | |
生誕 | Іван Васильович Миколайчук 1941年6月15日 ![]() |
死没 | 1987年8月3日 (46歳没)![]() |
国籍 | ウクライナ人 |
職業 | 俳優、映画監督、脚本家、作曲家 |
活動期間 | 1964年 - 1987年 |
代表作 | 『火の馬』(1964年) 『黒い斑点のある白い鳥』(1970年) 『紛失した特許状』(1972年) 『バビロンXX』(1979年) |
配偶者 | マリヤ・ミコライチュク(1962年 - 1987年) |
受賞 | タラス・シェフチェンコ国家賞(1988年、死後) |

イヴァーン・ヴァスィーリョヴィチ・ムィコライチューク(ウクライナ語: Іван Васильович Миколайчук、英語: Ivan Mykolaichuk、1941年6月15日 - 1987年8月3日)は、ウクライナの俳優、映画監督、脚本家、作曲家。ウクライナ語の発音に基づく標準的な日本語表記は「イヴァン・ヴァシリョヴィチ・ミコライチュク」である[1]。
ウクライナ詩的映画の中心的存在で、34の映画に出演、9本の脚本を書き、2本の監督作を残した。セルゲイ・パラジャーノフに「オレクサンドル・ドヴジェンコに匹敵する国民的才能」と称され、「ウクライナ映画の魂」と呼ばれる[2]。タラス・シェフチェンコ国家賞を1988年に死後受賞。
経歴
幼少期と教育
1941年6月15日、ウクライナSSRのチェルニウツィー州キツマニ地区チョルトリヤで、13人きょうだいの農民家庭に生まれた[3]。10人が成人し、現在も一部のきょうだいがチョルトリヤに在住。
実家はイヴァン・ミコライチュク記念博物館として再建され、姉フロジナ・グリツュクと甥ヴァシーリが管理する[4]。
12歳から村の素人劇団で活動し、ミハイル・スタリツキーの『不幸な女』で老父イヴァン役を演じた[5]。
ブルスニツャの中学校を卒業(旧校舎は現存、新校舎にミコライチュク博物館)[6]。
1957年にシドール・ヴォロブケヴィチ記念チェルニウツィー芸術大学、1961年にオルガ・コビリャンスカ記念チェルニウツィー音楽劇場付属劇場スタジオを卒業。1963年から1965年、イヴァン・カルペンコ=カリイ記念キエフ国立劇場映画テレビ大学の俳優科(ヴィクトル・イフチェンコクラス)で学ぶ[3]。
1962年8月29日、チェルニウツィー劇場の女優マリヤ・カルピュクと結婚[7]。
俳優としてのキャリア
学生時代、レオニード・オシカの短編『二人の若者』(1964年)で映画デビュー。ドヴジェンコ映画スタジオでヴィクトル・イフチェンコの推薦を受け、セルゲイ・パラジャーノフの『火の馬』(原題:Тіні забутих предків、1964年)のイヴァン・パリイチュク役のオーディションに参加。パラジャーノフは当初別の俳優を起用予定だったが、ムィコライチュークの即興祈祷に感銘を受け主役に抜擢。「純粋さ、情熱、感情の爆発」で撮影陣を魅了したとされる[2][8]。同年、ウラジーミル・デニセンコの『夢』で若きタラス・シェフチェンコを演じ、2作同時撮影しながら2年生を修了。『火の馬』は39の国際賞、28の映画祭賞(24のグランプリ)を獲得し、ギネス世界記録に登録された[5]。
1970年の『コミサール』では、鋭い道徳観と精神的理想主義を持つコミサール・グロモフを演じ、心理的深みとキャラクターの矛盾を表現。1971年の『黒い斑点のある白い鳥』(ユーリー・イリエンコ監督)では俳優(ペトロ役)兼脚本家として参加し、モスクワ国際映画祭金賞を受賞。1972年の『紛失した特許状』(ボリス・イフチェンコ監督)ではコサックのヴァシーリ役を演じ、共同監督と音楽監修を務め、バンドゥーラの革新的な使用やニナ・マトヴィエンコらのトリオ「黄金の鍵」の歌を導入[9]。
検閲と創作制限
1960-70年代、ウクライナ文化人への弾圧が強化。1968年の『アンニチカ』撮影中、ムィコライチュークは「民族主義」疑惑で告発され、国家主義と愛国心の違いを弁明するも「敵対的イデオロギーの人物」とされた。『黒い斑点のある白い鳥』も「国家主義的」と批判され、ムィコライチュークは当局の尋問を受けた。『火の馬』は長期間上映禁止、『紛失した特許状』は1980年代末まで公開延期。1970年代中盤、党の指示でムィコライチュークは5年間ほとんどの撮影から排除された[9]。
1979年、ハルキウ州共産党イデオロギー担当書記ヴォロディミル・イヴァシュコの後援で、ヴァシーリ・ゼムリャクの小説に基づく『バビロンXX』(1979年)の制作が許可。ムィコライチュークは監督、俳優、脚本家、作曲家を兼任し、ドゥシャンベの全ソビエト映画祭で最優秀監督賞を受賞[5]。1981年の監督作『遅く、暖かな秋』はイデオロギー問題で再撮影を強いられ、成功を収めなかった。1983年に脚本『イヴァンの戯言』を執筆し、1986年に撮影許可を得るも、病により実現せず(ボリス・イフチェンコが1989年に完成)[10]。
晩年と死
1987年8月3日、癌のためキエフで46歳で死去。バイコヴェ墓地に埋葬され、墓碑には『石の十字架』を模した十字架が立つ[3]。
私生活
1962年にマリヤ・ミコライチュク(旧姓カルピュク)と結婚。マリヤはニナ・マトヴィエンコらとトリオ「黄金の鍵」で活動し、ムィコライチュークの映画音楽に参加。夫妻に子はいなかったが、終生のパートナーとして創作を支えた[7]。
作品
フィルモグラフィ
- 俳優
- 1964年:『夢』(タラス・シェフチェンコ)
- 1964年:『火の馬』(イヴァン・パリイチュク)
- 1965年:『毒蛇』(ヴァルコ・ブリキン)
- 1966年:『雑草』(ダヴィド・モトゥズカ)
- 1967年:『二つの死』
- 1967年:『キエフの旋律』
- 1968年:『オノレ・ド・バルザックの過ち』
- 1968年:『アンニチカ』(ロマン)
- 1968年:『石の十字架』(ミコーラ)
- 1968年:『斥候』(ヴィクトル・クルガノフ)
- 1968年-1969年:『解放』(サヴチュク、2部)
- 1970年:『黒い斑点のある白い鳥』(ペトロ)
- 1970年:『コミサール』
- 1971年:『君のもとへ』
- 1971年:『ベレンデイ国のラーダ』
- 1971年:『ザハール・ベルクト』(リュボミル)
- 1972年:『すべてに逆らって』
- 1972年:『紛失した特許状』(コサックのヴァシーリ)
- 1973年:『女についての物語』
- 1973年:『人が微笑んだとき』
- 1974年:『マリーナ』
- 1975年:『運河』
- 1976年:『不安な9月』(グナト)
- 1978年:『海』
- 1978年:『双子座の下で』
- 1978年:『他人の罪の贖い』
- 1979年:『バビロンXX』
- 1980年:『森の歌。マフカ』
- 1981年:『遅く、暖かな秋』
- 1982年:『バタフライの帰還』
- 1983年:『オルガ公妃の伝説』(ヴォロディミル・スヴャトスラヴィチ)
- 1983年:『ミールホロドとその住人』
- 1986年:『剣の先に』(ユーリー・トゥルチン)
- 1987年:『ジュメニャキ』(ジュメニャク)
- 監督
- 1979年:『バビロンXX』(全ソビエト映画祭最優秀監督賞)
- 1981年:『遅く、暖かな秋』
- 脚本
- 1970年:『黒い斑点のある白い鳥』
- 1974年:『夢見て生きる』
- 1977年:『孤狼』(共作)
- 1978年:『双子座の下で』
- 1979年:『バビロンXX』
- 1981年:『遅く、暖かな秋』
- 1986年:『音に記憶が響く…』
- 1989年:『イヴァンの戯言』(死後公開)
- 作曲
- 1979年:『バビロンXX』
芸術的特徴
ムィコライチュークの演技は、ウクライナ詩的映画の特徴である精神的純粋さと象徴性を体現。『火の馬』のイヴァン役では情熱と神聖さを、『黒い斑点のある白い鳥』のペトロ役では複雑な心理を表現。脚本家としてはウクライナのフォークロアを現代的に再解釈し、『紛失した特許状』ではバンドゥーラの革新的な使用や民謡の導入で音楽性を強化。監督作『バビロンXX』は、村の共同体を通じてウクライナの歴史と魂を描き、視覚的詩情と民族意識を融合させた[11]。
受賞
- タラス・シェフチェンコ国家賞(1988年、死後、『バビロンXX』など)
記念
- 全国の都市(キエフ、リヴィウ、ドニプロ、チェルニウツィーなど)でイヴァン・ミコライチュク通りが命名[要出典]。
- ヴィーンヌィツャで2015年にフェリクス・コン通りが改名[12]。
- ウクライナ少年スカウト49番隊がムィコライチュークにちなむ。
- 小惑星8244 Mikolaichukが命名。
- ミコライチュク・フェスト(民謡と映画の全国フェスティバル、75周年記念)。
- 2016年、ウクライナの英雄称号の請願が大統領府に提出[13]。
- ウクライナ国立銀行が2016年に記念切手、2001年に2フリヴニャ記念貨幣を発行[要出典]。
関連ドキュメンタリー
- 1989年:『イヴァン・ミコライチュクの追悼』(ヴァシーリ・ヴィーテル監督)
- 1998年:『イヴァン・ミコライチュクへの献身』(アナトーリー・シリフ監督、リュドミラ・レメシェヴァ脚本)[14]
- 2007年:『イヴァン・ミコライチュク:25年の愛』(ナタリヤ・フィツィチ脚本、セルヒイ・ツィンバル監督)
- 『人生の書:イヴァン・ミコライチュク』(2部作、タラス・トカチェンコ、ヴァシーリ・イラシュチュク脚本)
ギャラリー
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ヴィジュニツャのシェフチェンコ劇場の記念プレート
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2016年のウクライナ記念切手
出典
- ^ ウクライナ語の「Іван」は日本語で「イヴァン」、「Васильович」は「ヴァシリョヴィチ」、「Миколайчук」は「ミコライチュク」と転写されるのが一般的。長音の「イヴァーン」や「ムィ」はロシア語風の影響を受けた表記である。
- ^ a b “Мистецька магія Івана Миколайчука” (ウクライナ語). Голос України (2011年6月15日). 2020年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ a b c Г.С. Брега. “Миколайчук Іван Васильович” (ウクライナ語). Енциклопедія історії України. p. 656. 2025年4月23日閲覧。
- ^ “Біографія Іван Миколайчук” (ウクライナ語). Іван Миколайчук. 2014年9月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ a b c Наталка Позняк-Хоменко. “Іван Миколайчук. Український секс-символ із Божою ознакою” (ウクライナ語). Без цензури. 2025年4月23日閲覧。
- ^ “Знаменитості Буковини: Володимир Івасюк, Іван Миколайчук та Назарій Яремчук” (ウクライナ語). Сага. 2010年7月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ a b Валентина Ковальська. “«Про мене ще ніхто не писав». Марія Миколайчук” (ウクライナ語). Інститут українознавства. 2014年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ Мар'яна Байдак. “Тіні Івана Миколайчука” (ウクライナ語). Локальна Історія. 2020年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ a b “Душа українського кіно: невідомі факти про режисера та актора Івана Миколайчука” (ウクライナ語). РБК-Украина (2024年6月24日). 2025年4月23日閲覧。
- ^ “Миколайчук Іван” (ウクライナ語). Кіноколо. 2004年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ Лариса Брюховецька (1998年). “Реабілітація духовності. Парадокс Івана Миколайчука” (ウクライナ語). Кіно-Театр. pp. 24-26. 2016年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ “Вінницька міська рада ухвалила перейменування 135 вулиць та провулків” (ウクライナ語). Пам’ять. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ “Присвоїти Івану Миколайчуку почесне звання «Герой України»” (ウクライナ語). Петиція до Президента України. 2016年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- ^ Володимир Войтенко. “«Іван Миколайчук. Посвята», Анатолій Сирих” (ウクライナ語). Кіноколо. 2016年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
外部リンク
- イヴァーン・ムィコライチューク - IMDb
- “УКРАЇНСЬКА ШАРА / Іван Миколайчук” (ウクライナ語). 2025年4月23日閲覧。
- “Сайт «Іван Миколайчук»” (ウクライナ語). 2014年9月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- “Марко Роберт Стех «Очима культури» № 51. Про Івана Миколайчука і кінофільм «Вавилон XX»” (ウクライナ語). 2019年5月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年4月23日閲覧。
- Лариса Брюховецька. “Реабілітація духовності. Парадокс Івана Миколайчука” (ウクライナ語). Кіно-Театр. 2025年4月23日閲覧。
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