シカンダル・ジャー
(アーサフ・ジャー3世 から転送)
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シカンダル・ジャー Sikandar Jah |
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第6代ニザーム | |
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シカンダル・ジャー
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在位 | 1803年 - 1829年 |
別号 | ニザームル・ムルク アーサフ・ジャー3世 |
全名 | アクバル・アリー・ハーン |
出生 | 1768年11月11日 ハイダラーバード |
死去 | 1829年5月21日 ハイダラーバード |
子女 | ナーシル・ウッダウラ |
王朝 | アーサフ・ジャーヒー朝 |
父親 | ニザーム・アリー・ハーン |
宗教 | イスラーム教(スンナ派) |
シカンダル・ジャー(ウルドゥー語: سکندر جاہ, Sikandar Jah, 1768年11月11日 - 1829年5月21日)は、インドのデカン地方、ニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)の第6代君主(ニザーム、在位:1803年 - 1829年)。アーサフ・ジャー3世(Asaf Jah III)とも呼ばれる。ハイダラーバードの双子都市シカンダラーバードは彼にちなんで名付けられた。
生涯
1803年8月6日、父である藩王ニザーム・アリー・ハーンの死により、藩王位を継いだ[1]。なお、その藩王位の相続はムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世に公認された。
父王の死後、マラーター同盟とイギリスとの間に第二次マラーター戦争が勃発した際には後者に味方し、ベラールやアフマドナガルの領土を与えられ、藩王国の版図拡大に成功している[2]。
その一方で、藩王国の支配・財政に重く圧しかかることになるイギリスのハイダラーバードへのさらなる駐屯を許してしまう。
ニザーム藩王国は19世紀になっても、役人や軍人への給与地制度であるジャーギール制による封建的土地所有制など中世さながらの政治が行われ、その後進性が問題視されていた[3]。
そのため、1820年12月から赴任したイギリスの駐在官チャールズ・メトカーフが藩王国の内政改革に着手が行われ、結果的にイギリスの内政介入を許す結果となってしまった[4]。
1829年5月21日、シカンダル・ジャーは死亡し、息子のナーシル・ウッダウラが藩王位を継承した[1]。
脚注
参考文献
- P・N・チョプラ; 三浦愛明訳 『インド史』 法蔵館、1994年。
- ブライアン・ガードナー; 浜本正夫訳 『イギリス東インド会社』 リブロポート、1989年。
- 辛島昇 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年。
関連項目
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