シカンダル・ジャーとは? わかりやすく解説

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シカンダル・ジャー

(アーサフ・ジャー3世 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/12 09:12 UTC 版)

シカンダル・ジャー
Sikandar Jah
第6代ニザーム
シカンダル・ジャー
在位 1803年 - 1829年
別号 ニザームル・ムルク
アーサフ・ジャー3世
全名 アクバル・アリー・ハーン
出生 1768年11月11日
ハイダラーバード
死去 1829年5月21日
ハイダラーバード
子女 ナーシル・ウッダウラ
王朝 アーサフ・ジャーヒー朝
父親 ニザーム・アリー・ハーン
宗教 イスラーム教スンナ派
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シカンダル・ジャーウルドゥー語: سکندر جاہ‎, Sikandar Jah, 1768年11月11日 - 1829年5月21日)は、インドデカン地方ニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)の第6代君主(ニザーム、在位:1803年 - 1829年)。アーサフ・ジャー3世(Asaf Jah III)とも呼ばれる。ハイダラーバードの双子都市シカンダラーバードは彼にちなんで名付けられた。

生涯

1803年8月6日、父である藩王ニザーム・アリー・ハーンの死により、藩王位を継いだ[1]。なお、その藩王位の相続はムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世に公認された。

父王の死後、マラーター同盟とイギリスとの間に第二次マラーター戦争が勃発した際には後者に味方し、ベラールアフマドナガルの領土を与えられ、藩王国の版図拡大に成功している[2]

その一方で、藩王国の支配・財政に重く圧しかかることになるイギリスハイダラーバードへのさらなる駐屯を許してしまう。

ニザーム藩王国は19世紀になっても、役人や軍人への給与地制度であるジャーギール制による封建的土地所有制など中世さながらの政治が行われ、その後進性が問題視されていた[3]

そのため、1820年12月から赴任したイギリスの駐在官チャールズ・メトカーフが藩王国の内政改革に着手が行われ、結果的にイギリスの内政介入を許す結果となってしまった[4]

1829年5月21日、シカンダル・ジャーは死亡し、息子のナーシル・ウッダウラが藩王位を継承した[1]

脚注

シカンダル・ジャー
  1. ^ a b Hyderabad 6
  2. ^ チョプラ『インド史』、p.169
  3. ^ ガードナー『イギリス東インド会社』、p.325
  4. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p.44

参考文献

  • P・N・チョプラ; 三浦愛明訳 『インド史』 法蔵館、1994年 
  • ブライアン・ガードナー; 浜本正夫訳 『イギリス東インド会社』 リブロポート、1989年 
  • 辛島昇 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年 

関連項目




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