アブラム・アルヒーポフ
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アブラム・アルヒーポフ
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Абра́м Архи́пов | |
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イリヤ・レーピンによる肖像画
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生誕 | 1862年8月27日 ロシア、エゴロヴォ(Yegorovo) |
死没 | 1930年9月25日 (68歳没) モスクワ |
アブラム・エフィモヴィチ・アルヒーポフ(ロシア語: Абра́м Ефи́мович Архи́пов, ラテン文字転写: Abram Efimovich Arkhipov、1862年8月27日 - 1930年9月25日)は、ロシアの画家である。「移動派」やロシア芸術家連合のメンバーであった[1]。ロシア革命の以前と以後もモスクワの美術学校で教えた。ロシアの農民女性などを明るい色使いで描いた作品などがある[2]。
略歴
リャザン州のエゴロヴォ村(Yegorovo)の農民の家に生まれた[2]。1877年にモスクワ絵画・彫刻・建築学校に入学しヴァシリー・ペロフやウラジーミル・マコフスキー、ヴァシーリー・ポレーノフ、アレクセイ・サヴラソフに学んだ[2]。同時期の学生にはアンドレイ・リャブシュキン、ニコライ・アレクセーヴィチ・カサートキン、ミハイル・ネステロフらがいた。モスクワで6年間過ごした後、1887年にサンクトペテルブルクの帝国芸術アカデミーで2年間過ごし、モスクワに戻り、1888年に卒業した。
1889年に移動美術展協会(通称「移動派」)の会員となり、1894年から1918年までモスクワ絵画・彫刻・彫刻学校の人物画のクラスで教えた。1904年、ロシア芸術家連合(Союз русских художников)の創立メンバーになった。1916年に帝国芸術アカデミーの正会員に選ばれた。
10月革命の後、美術教育の再編に参加し、1918年から1920年の間は「国立美術自由工房(Государственных свободных художественных мастерских)」で教え、1922年から1924年にかけては改組されたモスクワの「高等美術工芸工房(ヴフテマス)」で教えた。1924年に革命ロシア芸術家協会の会員に選ばれ、1927年にロシア人民芸術家に選ばれた。
1930年にモスクワで亡くなった。
作品
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洗濯女 (c.1901)
トレチャコフ美術館 -
赤い服の女性
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春祭り(1913)
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冬の朝(1920)
ソチ美術館
脚注
参考文献
- Chilvers, Ian (2004). Diccionario del arte del siglo XX. Edición de Arturo Colorado Castellary, Editorial Complutense. ISBN 978-84-74916003.
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