アシク・テムルとは? わかりやすく解説

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アシク・テムル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/22 22:46 UTC 版)

アシク・テムルモンゴル語: Asiq temür定宗2年(1247年) - 至大2年9月10日1309年10月13日))は、モンゴル帝国に仕えたウイグル人文官の一人。

元史』には立伝されていないが、『雪楼集』巻7武都忠簡王神道碑にその事蹟が記される。『新元史』には武都忠簡王神道碑を元にした列伝が立てられている。

概要

アシク・テムルは代々ビシュバリクに居住してきたウイグル人家系の出で、トルイ家に仕えたムングスズの息子の一人であった。アシク・テムルは早くから皇太子チンキムケシク(宿衛)に入り、至元15年(1278年)には遠征に従軍して功績があり、従仕郎枢密院都事に任じられた。この頃、チンキムの妻のココジン・カトンに召し出されて内廷に入り、チンキムとココジンの息子であるカマラ(後の晋王)とテムル(後の成宗オルジェイトゥ・カアン)の家庭教師を任じられている[1]

至元19年(1282年)、朝列大夫・枢密院断事官の地位を授けられ、大徳2年(1298年)には翰林侍読学士とされた[2]。また、この頃カイシャン(後の武宗クルク・カアン)の家庭教師も任せられ、カイシャンの即位後には栄禄大夫・大司徒・翰林学士承旨・知制誥兼修国史に任じられ、至大元年(1308年)には金紫光禄大夫・領太常礼儀院事を加授された[3]

至大2年(1309年)9月10日、京師で63歳にして亡くなった。死後、朝廷からは武都王に追封され、忠簡と諡されており、アシク・テムルの事蹟を伝える「武都忠簡王神道碑」の題名はこれに由来する[4]

脚注

  1. ^ 『雪楼集』巻7武都忠簡王神道碑,「王生有異質、強敏過人。為裕宗宿衛、起家。至元十五年、従征有功、授従仕郎枢密院都事。徽仁裕聖皇后召入内廷、以字学訓成宗・晋王」
  2. ^ 『雪楼集』巻7武都忠簡王神道碑,「十九年、進朝列大夫・枢密院断事官。雪辺帥之誣、衆誉翕然。大徳二年、遷翰林侍読学士」
  3. ^ 『雪楼集』巻7武都忠簡王神道碑,「太中大夫復命輔迪武宗。今上九年、陞翰林学士・正議大夫。武宗即位、以師傅恩、特拝栄禄大夫・大司徒・翰林学士承旨・知制誥兼修国史。至大元年、加金紫光禄大夫・領太常礼儀院事、餘如故」
  4. ^ 『雪楼集』巻7武都忠簡王神道碑,「明年九月十日、以疾薨于京師、年六十一三。宮弔賻制贈推誠保徳済美功臣・太師開府儀同三司・上柱国、追封武都王、諡忠簡、以某月某日葬高良河之浜」

参考文献

  • 新元史』巻136列伝33阿失帖木児伝



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