BIZEN中南米美術館 美術館

BIZEN中南米美術館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 02:18 UTC 版)

美術館

財団法人森下美術館(1975-2005)

備前焼の陶板をあしらった建物

森下精一はかねてから国内外の美術作品への関心が強く、人間国宝である金重陶陽備前焼、日本・朝鮮・中国の陶磁器類、横山大観下村観山らの日本画宮本三郎梅原龍三郎らの洋画などを収集していた[5]。森下精一が65歳の時に商用で中南米を訪れた折、取引相手であった実業家兼アンデス文明研究者の天野芳太郎を訪ねた際に古代アメリカの美術に目覚めた[6]。専門家に鑑定を依頼した結果、森下精一が収集したコレクションは中南米10か国の貴重な文化遺産であり、紀元前2500年から紀元1500年までの約4000年間にわたる期間のコレクションであることが判明している[5]

森下精一は中国銀行頭取の守分十などの協力を得て、1974年(昭和49年)4月に財団法人を設立して施設と全所蔵物を寄贈[5]。1975年(昭和50年)3月5日には和気郡日生町財団法人森下美術館を開館させた[2]インカ文明マヤ文明など中南米の古代文明から、土器土偶・織布など約1,000点を展示している[2]。美術館の外壁には藤原建が製作した16,000枚以上の備前焼の陶板をあしらっている[7]。なお、国宝である閑谷学校講堂、黒住教本部も森下美術館同様に備前焼の陶板をあしらった建物である[1]。日本総合設計事務所社長の鈴木登は、担当者を中南米に派遣して建物の設計を行い、内装は現代芸術研究所の平野繁臣や長崎哲士が指導にあたった[7]。収蔵品の分類・整理・展示指導・解説には、文化人類学者の増田義郎東京大学)があたった[7]

岡山県の観光地をめぐる主要な定期観光バス3ルートのひとつに組み込まれたため、開館当初は年間4,000人の入館者があったが、バスルートから外れると入館者数が低迷した[8]

BIZEN中南米美術館(2005-)

森下精一の孫であり、森下一之介の息子である森下矢須之は、慶応義塾大学卒業後にメキシコ国立自治大学で中南米の歴史と文化を学んでおり[9]スペイン語が堪能である[10]。開館30周年を迎えた2005年(平成17年)3月に矢須之が森下美術館の理事長兼館長に就任すると、名称をBIZEN中南米美術館に変更[10]。美術館には珍しくコーポレートアイデンティティを導入し、体験型展示を行うなど展示形式を見直した[10][1]。展示形式のリニューアルが功を奏し、2005年度には入館者数が6,000人台まで増加した[8]

2016年(平成28年)12月に横浜みなと博物館で開催された「マチュピチュの出会いと古代アンデス文明展」ではBIZEN中南米美術館が共催となった。2016年から2017年(平成29年)にかけて開催した『蔵出し展~アンデス編~』には、エラルド・エスカラ駐日ペルー大使が訪れている。2018年3月から5月に茨城県の笠間日動美術館で開催される展覧会「古代文明への旅 アステカ、マヤ、インカへの道のり」には、BIZEN中南米美術館が全面協力している。


  1. ^ ただし、一週間以上前に2人以上で予約を入れれば、休館日も開館することがある。





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