1995年のF1世界選手権
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低迷が目立つマクラーレン
マクラーレンはこの年からメルセデスベンツのワークス供給を受けることとなった。ドライバーはミカ・ハッキネンと前年ウィリアムズに復帰していたナイジェル・マンセルのラインナップにて開幕を迎えている。しかし、マンセルはチーム代表のロン・デニスとは以前から犬猿の仲であることは有名だったので、マンセルのマクラーレン加入は驚きを以って伝えられた。これはセナの事故死やプロストの引退によるF1人気の低下を危惧したメインスポンサーのマールボロや、FIA会長のバーニー・エクレストンらの意向による政治的な背景があったとされ、周囲の懸念の通りマンセルはコックピットの狭さを訴えシーズン開幕から2戦を欠場。その後、第3戦サンマリノGPと第4戦スペインGPを出走するものの、マシンに不満を訴え、スペインGPがリタイアで終わると同時にチームを離脱した。マンセル離脱で空いたシートには、マンセルが欠場した開幕2戦も出走したテストドライバーのマーク・ブランデルが座ることとなった。マシンの戦闘力向上のため、シーズン途中に改良型を投入したものの、ハッキネンが2位2回を獲得するにとどまり、前年に続き未勝利にてシーズンを終了している。また、ハッキネンは最終戦のオーストラリアGPにてタイヤのパンクによる重大なる事故を体験。事故の衝撃で自らの舌を噛み切ってしまう重傷で、オフのテスト期間は治療に専念することとなった。
その他のチーム
- 前年途中にオーナーに就任したフラビオ・ブリアトーレの意向によりルノーエンジンを失ったリジェは、前年で活動に終止符を打ったロータスが使用していた無限ホンダエンジンをミナルディとの争奪戦の末に獲得し参戦。しかし、この年のリジェ・JS41は搭載するエンジンの違うことによる設計の差異はあっても、ベネトンB195の類似点が多かったため、「オリジナルのシャーシ」で参戦するというコンストラクターの条件に違反しているのではないかと論争を醸し、FIAの調査も入ったものの、同一のものではないと判断され問題ないものとして扱われた(コピーマシン問題)。
- この年のジョーダンは前年マクラーレンに供給されていたプジョーエンジンを獲得。これはジョーダンにとっては参戦以来初の自動車メーカーのワークスエンジン獲得でもあった。第5戦カナダGPでチーム初のダブル表彰台を記録した。
- ザウバーはメルセデスエンジンを失ったものの、フォードのワークスとなり最新型のZETEC-Rエンジンにて参戦した。ハインツ=ハラルド・フレンツェンが第12戦イタリアGPにて3位となり、チームに初めての表彰台(自身も初の表彰台)をもたらした。
- 参戦2年目のシムテックはベネトンからヨス・フェルスタッペンが加入し、ドメニコ・スキャッタレーラとコンビを組んだ。フェルスタッペンの加入はベネトン製のセミオートマトランスミッションの持ち込みも含めてのものであった。フェルスタッペンは第2戦アルゼンチンGPで予選14位に食い込む結果を残すが、肝心の資金繰りがままならず、チームは第5戦モナコGPを最後に撤退することになってしまった。
- パシフィックは最終戦まで参戦したものの、完走は2人のドライバーで僅か5回という状況もあり、1度も入賞を記録できず、シーズン終了後に撤退するに至っている。
- 国際F3000を戦っていたフォルティ・コルセがF1へ参戦。ブラジル人ドライバーのペドロ・ディニスが抱えている多数のスポンサー資金頼みではあったが、新規参戦を果たした。セカンドドライバーには1992年のアンドレア・モーダ以来のロベルト・モレノが起用されている。
日本人ドライバーの概要
この年は前年に引き続き、多数の日本人ドライバーが参戦をしている。
鈴木亜久里
前年F1浪人をした(第2戦パシフィックGPにてジョーダンから1戦のみスポット参戦をした)鈴木亜久里は無限ホンダの後押しもあって、無限エンジンを搭載することになったリジェと契約した。亜久里自身は全戦契約のつもりでいたが、チームが発表した契約は共同オーナーのトム・ウォーキンショーが推すマーティン・ブランドルとのシートシェアという変則的なものであった。当初参戦数は半々という話しであったが、シートはブランドルの出走が優先され、シーズン全体でも全17戦中、亜久里は5戦の出場に留まっている。それでも第9戦ドイツGPにて実に4年ぶり(1991年アメリカグランプリ以来)の6位入賞を果たしている。また、第16戦日本GPの予選終了後に引退会見を行い、正式にF1引退を発表しようとしたのだが、予選中のクラッシュによって負傷をしてしまい、決勝には出走できず、そのまま引退する形となった。
片山右京
前年飛躍のシーズンを過ごし、大きく期待された片山右京であったが、開幕から投入された新車ティレル・023は、開発した新装備のハイドロリックサスペンションを実装したものの、期待通りの性能を発揮できず戦闘力が不足していた。片山自身も新しいチームメイトのミカ・サロの後塵を拝すことが多く、第13戦ポルトガルGPのスタート直後に壮絶なクラッシュも経験。左後輪が後方のミナルディのルカ・バドエルの右側前輪に乗り上げでしまい、マシンは7回転半の錐揉み回転にてコースに叩きつけられ、原型を留めない姿にて逆さに停止した。最悪の事態も想定されたが、幸いにも片山は大事には至らずに翌14戦のヨーロッパGPを1戦欠場したのみで復帰を果たしている。成績の面では、入賞なしにてシーズンを終了した。
井上隆智穂
前年の日本GPにてシムテックからF1デビューした井上隆智穂は、この年フットワークからレギュラー参戦を果たし、中嶋悟、鈴木亜久里、片山右京に続き4人目の日本人レギュラードライバーとなった。非力なハートエンジンと資金不足のチームという組み合わせであったこともあり、成績自体は入賞といった記録は残せなかったものの(最高位:予選18位、決勝8位)、それまでの日本人ドライバーと違い自動車メーカーの支援を一切受けずに、自ら見つけたスポンサーを頼りにF1参戦を果たした点は結果的に異色の存在であった。井上は1996年シーズンもミナルディにシートを確保したものの、肝心のスポンサーフィーが約束の期限に支払われない事態が発生してしまい、結局シートを失ってしまいF1参戦は1シーズンに留まっている。
その他の日本人
この年は前年ラルースからスポット参戦を果たした野田英樹もシムテックチームから参戦をすることが決まっていたが、阪神淡路大震災の影響により、野田のスポンサーからの支払われるはずのスポンサーフィーが遅れることが濃厚となったため、第6戦カナダGPからの参戦と決定していた。しかし、第5戦のモナコGPが終わった時点でチームの資金難が明るみになり、野田参戦前にチームが撤退することになってしまい、1995年シーズンの参戦は実現しなかった。結局、野田は以後F1に出走する機会を得ることができず、前年のラルースからの出走がキャリアで唯一のF1出走ということになってしまった。
また、パシフィックが日本で開催されるパシフィックGPと日本GPに山本勝巳を起用しようとしたが、スーパーライセンスが発給されずに断念している。
- ^ ただし、1992年は全16戦、1995年は全17戦なため、勝率ではマンセルのほうが上回っている。
- ^ 英語版ウィキペディアの記事
- ^ GIRO監修 『F1全史 1991 - 1995 第6集』 ニューズ出版、1996年、106-111頁、ISBN 978-4-938495-07-7。
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