高啓 高啓の概要

高啓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 03:12 UTC 版)

略歴

父は所有地管理の都合から、蘇州近郊の呉淞江岸の大樹村に住んでいた。高啓は元順帝の至元2年(1336年)にそこで生まれ、幼少年時代をそこで過ごした。長じて市内に住んだこともあったが、生涯の大部分をいわゆる江南の水郷である郊外農村でおくった。家は100余畝(7ヘクタールほど)を有する小地主である。そうして中小地主こそは蘇州地方の中心的な勢力だった。彼が一生の大部分を定職なしに過せたのは、家産と地主階級の勢力とを背景にしてである[1]

幼少より神童とうたわれ、書は読まざるなしといわれたほどの博学で知られた。歴史を好んだため、史書から取った典故をよく使う。父はわりあい早く死に、兄は外へ出たので、彼は若くして家を切りまわし、家の用でたびたび城内へ行く必要がおこったため、城内に移転し、近くに住んでいた王行・張羽・徐賁らの人々と北郭十友というグループを作って、早熟の詩才を誇った[1]

早くから詩人として知られ、元末の至正16年(1356年)、王朝末期の混乱の中で一方の実力者であった張士誠が蘇州を占拠し、ここを首都として独立を宣言したとき、その部下の高官たちに才能を認められて保護を受けたが、張士誠からは官位を受けなかった[2]

18歳の時、呉淞江岸の青邱の豪家の周子達の娘と結婚した[1]

23歳の年に青邱に移り住み、「青邱子」と号し、生涯の大作「青邱子歌」を作ったが、その冬から25歳にかけて杭州紹興方面へ旅行を試みた[1]

待望の平和がおとずれ、身辺もやや安定したものの、最愛の娘を失い、これまでの仇敵の立場にあった朱元璋を君主として戴くことになった。歳はすでに30である[1]

やがて至正27年(1367年)、張士誠は朱元璋と戦って敗れ、蘇州は没落した。翌年、朱元璋は南京で即位し、ここから明朝が始まる。高啓は蘇州の落城後、しばらく田舎にのがれていたが、明の洪武2年(1369年)、太祖から召されて南京へ行き、史官の職を授けられて『元史』の編集事業に参加した。太祖も彼の才能を認めたらしく、翌年には戸部侍郎に任じようとしたが、彼は急速な昇進にかえって不安を感じ、固辞して蘇州に帰った[2]

洪武3年(1370年)に翰林院編修になり、戸部侍郎に抜擢されたがすぐに辞し、蘇州郊外の青邱に戻り在野の詩人として活躍した。

その後、南京にいたころからの旧知である魏観が蘇州知府として来任したので、高啓はしばしばそのもとへ出入りした。魏観は文学の才もあり、官僚としても有能だったらしいが、王朝の草創期にあたって皇帝の権威を確立しようとしていた太祖にとって、有能な官僚はすべて注意人物と見られる傾向があった。たまたま魏観が蘇州府庁を移転したとき、これが謀反の準備だと密告する者があり、魏観は逮捕されて死刑に処せられた。このとき、蘇州で魏観と親しくしていた人々も一味と見なされ、逮捕されたが、高啓は新府庁の上梁文(棟上げを祝う文)を書いていたため、特に目をつけられた[2]

そしてその詩(「宮女図」)に、太祖を諷刺したものがあり、また友人で蘇州知事でもあった魏観のために書いた文章が災いして腰斬の刑に処せられた。享年39[1]

洪武6年(1373年)、楓橋において死を覚悟しての北行に際して「絶命詩」を詠んでいた[1]

高啓は謀反人として殺されたため、彼に関する記録や彼の作品集が破棄されてしまったので、伝記に明瞭でない部分が多い。彼が明朝に仕え、かなり優遇されながら辞任して郷里に帰った真意も、正確にはつかめない点がある。南京で作った「宮女図」などの詩が太祖の淫楽を諷刺したものであり、そのころから彼は太祖に不満を抱き、太祖もまた彼を恨んで、魏観の事件を口実に彼を処刑したとする説もあるが、伝説的な傾向が強く、完全には信用しがたい。作品集は後世の人によって再編集された。そのうち詩集は『高太史大全集』18巻である[2]

明の詩人では最も才能に恵まれ、この世のあらゆる対象を約2000首の詩に表した。詩の意味は平明、表現は淡泊であるが、夭折のため独自の風格を示していない。

日本では江戸時代明治時代を通じて愛唱された。著に『高太史大全集』18巻、『高太史鳧藻集』5巻、『扣舷集』1巻がある。「青丘子歌」には自己の文学論が述べられており、森鷗外に文語調の訳詩がある。

題雲林小景
歸人渡水少  帰人 渡水少し
空林掩煙舎  空林 煙舎を掩う
獨立望秋山  独り立ち 秋山を望めば
鐘鳴夕陽下  鐘鳴りて夕日下る


尋胡隠君
渡水復渡水  水を渡り また水を渡り
看花還看花  花をみ また花を看る
春風江上路  春風江上の路
不覺到君家  覚えず君が家に到る


逢呉秀才復送帰江上
江上停舟問客縱  江上舟を停めて客縦を問う
乱前相別乱餘逢  乱前に相別れて乱余に逢う
暫時握手還分手  暫時 手を握り還た手を分かつ
暮雨南陵水寺鐘  暮雨の南陵 水寺の鐘


青邱子歌
江上有靑邱、予徙家其南、  江上に青邱有り、予徙りて其の南に家し、
因自號靑邱子、閒居無事、  因りて自ずから青邱子と号す、閒居無事、
終日苦吟、閒作靑邱子歌、  終日苦吟し、閒に青邱子の歌を作りて、
言其意、以解詩淫之嘲。  其の意いを言い、以て詩淫の嘲りを解く。

  1. ^ a b c d e f g 『中国詩人選集2集』 10巻、岩波書店。 
  2. ^ a b c d 『宋・元・明・清詩集』 19巻、平凡社〈中国古典文学大系〉、1973年3月24日。 


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