無所属団 無所属団の概要

無所属団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/29 08:37 UTC 版)

第一次無所属

1898年頃に成立して1919年11月25日まで続いた会派。ただし、正式な会派として認められたのは、1911年3月20日である。

1898年に憲政党による日本初の政党内閣である第1次大隈内閣が成立した事に危機感を抱いた高橋新吉坊城俊章有地品之允ら少数の純無所属議員が政党内閣に反対して超然主義を擁護するために結成した集団が原点であるが、当時は少数で院内交渉会派としては成立せず、もっぱら考え方の近い茶話会と行動をともにする事が多かった。このため、両会派を合わせて「幸倶楽部派」とも呼んだ。ところが、1910年木曜会の内紛によって清交会を結成したグループが会派を維持できずに翌年に解散すると、その一部議員が「無所属」に入会したため、会派としての資格を得た。

さて、この木曜会及び清交会は、元々男爵議員が集まって構成されていた会派であったが、1919年に入って、各会派に散らばっていた男爵議員による統一会派結成運動が起きると、「無所属」の男爵議員もこれに呼応して合流、公正会を結成したため、「無所属」はその議員数を大幅に減らして会派として存続の危機を迎える。そこで同じく男爵議員の離脱による議員数の減少によって危機的状況に陥った土曜会との合併を図った。かくして、11月15日に土曜会残留者の受け皿として結成された新会派・同成会に10日遅れで「無所属」の残り議員が合流すると言う形で合併、同成会に参加することになった。

第二次無所属

1921年12月16日に成立して1928年2月1日まで続いた会派。

最大会派研究会に所属していた岡田良平ら10名の勅選議員が、研究会と原内閣との連携に反発して会派離脱を行い、これに細川護立ら一部の純無所属議員を加えて25名で発足した。反研究会の立場から、茶話会などと行動をともにする事が多かった。当時、茶話会を中心としていた「幸倶楽部派」は3会派(茶話会・同成会・公正会)から構成されて「幸三派」とも呼ばれていたため、これに「無所属」を加えて幸四派あるいは幸無三派と呼ばれた。

ところが、1927年に研究会を離脱した近衛文麿公爵侯爵議員らと結成していた超会派の親睦団体火曜会の会派化を計画する。これに侯爵である細川らは応じたものの、近衛は公爵・侯爵以外の議員の加入を一切拒否したために、「無所属」に属していた伯爵以下の議員や勅選議員は拠り所を失くしてしまう。そこで研究会の攻勢によって議席を減らしていた茶話会が合併を提案、これを受けて1928年2月1日に両会派は合併して新会派・同和会を結成した。

関連項目




「無所属団」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「無所属団」の関連用語

無所属団のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



無所属団のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの無所属団 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS