津幡町立河合谷小学校
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禁酒の規約
河合谷村自治改良委員会提言の禁酒令は、5年更新で小学校建設後も継続して行うもので、津幡町史第四編、資料の中に禁酒に関する規約が記載されている。禁酒規約の著者は当時の村長、発行所は日本国民禁酒同盟。以下は河合谷村自治改良会禁酒規約の第一期について簡単に現代訳で説明する。
- 第一条
- 禁酒による貯金を小学校校舎建設費に充て、かつ、村の財政難を禁酒による貯金で救い、禁酒でもって村民の勤倹習慣を作る事を目的とする。
- 第二条
- 村民は第一条の目的を達成させるため、大正15年4月1日より5年間禁酒を実行すること。ただし、祭礼などの御神酒や婚礼に要するものはこの限りではない。
- 第三条
- 村民は禁酒期間中、毎日全戸において5銭以上の貯金をし、この貯金でもって村民各自の村税負担金に振り替えるものとする。ただし、貧困または病気など止むを得ない事情がある場合はこの限りではない。
- 第四条
- 村民は禁酒期間中、次に掲げる事項を遵守すること。
- 村内において酒類を販売しない
- 村内において酒・酒券の贈答をしない
- 村内において来客相手に酒を振舞わないこと
- 全戸において家の門に禁酒標札を掲げること
- 第五条
- この規約に違反した者は相当の制裁を与える
禁酒の影響
1926年(大正15年)4月から行われた全村での禁酒により、村にあった8軒の酒屋は自主廃業した。これら自主廃業した酒屋は後に村から表彰される[7]。
目的を共有し達成させるために全村民が禁酒を行うという異例の出来事は全国で「禁酒の村」や「教育の村」として話題になり、日本国内だけでなく海外メディアも取材に訪れた[8]。その後、北國新聞によって取り上げられてから日本全国に情報が知れ渡り、「帝國唯一の禁酒小学校」とまで称されるに至る[9]。
教育の村としての精神は現代まで受け継がれ、現代でも教育費を町民で出し合ったり、禁酒の規約第四条で遵守すべき事であった「禁酒標札」を今なお掲げ続ける民家も残っている。
- ^ a b 津幡町史、第一編第五章、警防・民生・教育の諸機関、120頁-121頁
- ^ 『官吏給与法令集』122頁 - 244頁
- ^ 内閣総理大臣の年俸は1910年制定「高等官官等俸給令 - 改正勅令第134号」による。次に内閣総理大臣の年俸が改定されたのは1931年であり、9,600円に減額されている。
- ^ 小学校本科正教員の月俸は1920年制定「小学校令施行規則中改正 - 文部省令第19号」による。次に小学校本科正教員の月俸が改定されたのは1931年であり、40円 - 160円に減額されている。
- ^ 津幡町史 第三編 722頁
- ^ 津幡町史 第四編 資料第二『旧河合谷村挙村禁酒五年の顛末』843頁-844頁
- ^ 津幡町史 第四編 資料第二 旧河合谷村挙村禁酒五年の顛末 10の「先きに廃業した酒屋の表彰」
- ^ 津幡町史 第四編資料の864頁に「日本基督教婦人矯風会本部理事からの手紙に米国のミス・ゴルドン女史に伝えられる」(現代訳)とある。他、複数の節内にて海外メディアについて言及あり。
- ^ 津幡町史 第四編資料の3『教育方面の影響』に記載
- ^ 津幡教育委員会 『津幡町のみてあるき』1992年、118頁
- ^ 河合谷宿泊体験交流施設 整備情報(令和元年度分)
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