星一徹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/06 08:32 UTC 版)
住まい
飛雄馬と明子がマンションに引っ越して一徹の一人暮らしになったのち、中日コーチ就任以後は名古屋住まいとなるが、しばらくは東京下町の長屋の星家を借り続け、オズマによる大リーグボール1号打倒直後のオールスターの時期などは長屋に帰って春江の遺影に語りかけていた。しかし、消える魔球が打倒されたあとには長屋が取り壊されている。
河崎実は『巨人の星の謎』(宝島社)で「一徹の名古屋での生活は作品に全く出てこない」とし、「一徹は明子が結婚したあとも豪邸を拒否して独居するほどの偏屈だったから、中日コーチ時代から質素なアパート暮らしだったのだろう」と推定しているが、実際は大リーグボール3号登場直後に「中日ドラゴンズ宿舎」で和服を着てくつろぐ一徹とワイシャツ姿の伴が「関西スポーツ」紙の記事について語る場面がきちんと描かれている(終盤の「ある座談会」後半)。
河崎実は一徹が東京の長屋で「巨人軍の親会社の新聞」ともう一紙別のスポーツ新聞を購読していたことに注目し、「名古屋に引っ越した一徹は購読紙を『中日新聞』に変えたか」と推定している。
アニメでは民宿のようなところに泊まっている場面が多い。
『新』以降はアパート暮らしとなるが、自宅に風呂はなく銭湯通いをしていた。が、貧しいと言う訳ではなく、テレビなどの家具も揃っている。
経済面
一徹は長屋の貧乏生活時代にバネ6本で「大リーグボール養成ギプス」を作ったが、中日コーチ就任直後は約50本ものバネで「打倒ギプス」を製作(柳田理科雄は「49本」と書いているが、それは前から見えるバネだけ)。また、一徹は川上監督に伴トレードを承諾させるため、花形と左門の消える魔球打倒特訓を視察し、名古屋住まいのはずが冬の六甲山から九十九里浜まで一人で移動し(アニメでは一新聞記者に依頼して代理で調査させ、電話で報告させていた)、海外旅行中の川上夫妻に国際電話をかけ、川上監督一行が帰国する空港におもむいて一人で待ち受け、その場でトレードを成立させていた。
コーチ辞任の巨人、中日との関係
1970年の初め、一徹が語った伴トレードの目的は「打倒巨人」、「中日優勝」と「大リーグボール3号も4号もたたく」ことだった。しかし1970年に飛雄馬が3号のあとに失踪すると一徹と伴はあっさりと退団し、その年、中日は優勝できなかった。中日が優勝するのは1974年で、梶原漫画では与那嶺要率いる中日が大砲万作を起用して昇り竜のように強くなっており、大洋(現・横浜DeNA)の左門豊作以外の『巨人の星』レギュラーは球界を離れていた。一徹が伴を使って打倒するはずだった「大リーグボール4号」に当たる右1号の「蜃気楼の魔球」は一徹と伴自身が協力したもので、時代もすでに1978年になっており、この時期には与那嶺要も古巣・巨人に戻ってコーチとなり、飛雄馬たちの特訓を長嶋に報告していた。
- ^ このシーンは後年アニメのエンディングで繰り返し流され、本作を代表するシーンとなった。「巨人の星」が具体的にどの星か、という問はファンの興味を引き、テレビ番組やウェブサイトなどでしばしば取り上げられる。長屋が壊された時、野球への情熱を失っていた飛雄馬は「巨人の星も意味はなくなり、スーパーマーケット上空の星に過ぎん」と言っている。もちろん、星が店の上に固定されているわけではない。『新・巨人の星』では伴重工業グラウンドのベンチから見えた夜の一番星となっている。
- ^ 『新・巨人の星』では屋台などで酒をあおる様になったシーンが見られる。
- ^ 史実では1986年に金山卓嗣コーチ(前年に現役を引退して44番から変更)が初めて着用。以後、2017年現在の早川和夫まで一貫してコーチが着用している。
- ^ アニメ第18話では、一徹が一番恐れていた周囲に持ち上げられたことによる飛雄馬の増長が一度現実化している。
- ^ 『星一徹のモーレツ人生相談』、「週刊少年マガジン」1969年33号~1970.52号。
- ^ 作中ではフレディ表記。
- ^ ただし、原作漫画では1回のみである。また、アニメ版の2回目は1回目の回想シーンのため、実質的には一度とも言える。
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