新科学対話 新科学対話の概要

新科学対話

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/21 01:49 UTC 版)

新科学対話
著者ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei)
原題Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze
言語イタリア語、ラテン語
出版日1638

構成

正式な書名は、『機械学及地上運動に関する二つの新しい科学に就ての対話及数学的証明』( イタリア語: Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze)である[1]。構成としては、「第1日」から「第4日」までの4つに分かれ、「第1日」と「第2日」では主に機械学(材料力学、静力学)について述べられ、「第3日」と「第4日」では地上運動(動力学)について述べられている[2][3]。このほか、冒頭に「ノアイユ伯への献辞」があり、付録として、処女作「立体の重心についての諸定理」が収められている[4]。「立体の重心についての諸定理」は、ガリレオが22歳のときに発見した定理である[5]

「第1日」から「第4日」まではサグレド(サグレード)、サルヴィアチ(サルヴィアーティ)、シンプリチオ(シンプリーチョ)の3人による対話形式で書かれている。この登場人物は、ガリレオが以前に発表した著作『天文対話』と共通しており、サグレドはヴェネツィア市民、サルヴィアチは新しい科学者、シンプリチオはアリストテレス哲学に通じた学者の役割を担っている[6]。ただし、シンプリチオは『天文対話』では嘲笑の対象とされていた[7][8]が、本作ではその要素は薄れている[9]。ガリレオの弟子のベネデット・カステッリ英語版は、このシンプリチオの性格変化により本書に精彩さが失われたと残念がっている[10]

また、「第1日」と「第2日」は全編イタリア語の対話のみで構成されているが、「第3日」と「第4日」はガリレオ自身に相当する「学士院会員」によるラテン語の論文が挿入され、その内容について3人が議論する構成になっている[11]。この理由として科学史家の高橋憲一は、全編対話にするだけの時間がガリレオに残されていなかった、あるいは、論文の価値をヨーロッパに示すためにラテン語にしたのだろうと推測している[11]

なお、結果的に本書には含まれなかったが、本書出版後にガリレオは「第5日」と「第6日」に相当する2つの話題を追加しようとしていた。1つは衝撃力に関する内容で、1639年12月、弟子のヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニにより口述筆記された[12]。もう1つはユークリッドの比例の定義に関する内容で、こちらは1641年、弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリにより口述筆記された[13]。このうち「第5日」にはシンプリチオが登場せず、代わりにアプロイノという人物が登場する。これは、かつてのガリレオの弟子パオロ・アプロイノがもとになっていると推定されている[14]

出版までの経緯

ガリレオは本書で取り上げられることになる物体の運動に関して、長年研究を続けていた。ピサ大学教授時代(1589年1592年)には、生前に出版はされなかったが、『運動について』という著作を記している。そして1610年には運動論の論考を書くことを公表し、この時点で相当量の手稿があったとされている[15]。しかし、同時期の1609年、ガリレオは望遠鏡による天体観測を始めたため、この後しばらくは運動論より天文学のほうに主力を注ぐようになった[16]

ガリレオが本書の執筆にとりかかったのは1633年である[17]。同年の6月22日、ガリレオの2度目の宗教裁判が決着し、ガリレオは7月1日にローマからシエーナに移されている[18]。本書の原稿はシエーナで書き始められた[17]

1633年12月、ガリレオはアルチェトリの別荘に移った[19]。1635年5月には「第1日」と「第2日」にあたる箇所は完成しており[2]、6月に書いた手紙では、本書は4日間の対話構成になることを表明している[20]。しかし、イタリア国内ではガリレオの本を出版することが禁止されていたため、国外で出版する必要があった。ガリレオは友人の協力のもと出版元を探し、そして、パリの友人ディオダティ(Elia Diodati)の紹介で、オランダの出版業者ルイス・エルゼヴィル英語版と知り合うことができた[21]1636年5月にはエルゼヴィルが再びアルチェトリを訪れ、ガリレオと本書の出版に合意した[22]。ガリレオはすでに完成していた「第1日」と「第2日」を写し、ヴェネティアの友人ミカンツィオ(Fulgenzio Micanzio)に渡した[22]。さらに8月には「第3日」を郵送した[22]

本書の献辞にその名が書かれているノアイユ伯は、1636年10月、ローマからフランスへの帰り道に、ガリレオに会いたいとを切に願った[23]。ガリレオは移動を制限されていたため、2人が会うには苦労したが、10月25日ごろポッジボンシで会うことができた[23]。本書の「ノアイユ伯への献辞」によれば、2人が出会ったときにガリレオは本書の写しをノアイユに渡し、その後にエルゼヴィルから出版の話が来たことになっている[24]。しかし、この時点ですでに第3日までの原稿はエルゼヴィルの手元にあった。したがって、ガリレオ自身が書いたものとはいえ「ノアイユ伯への献辞」に書かれた内容は疑わしい[25][26]。これは、新教国オランダのエルゼヴィル社に始めから依頼したと知れるとイタリアの法王庁に具合が悪いため、ノアイユ伯の名を出したものと推定されている[21]

1636年12月にガリレオがディオダティにあてた手紙では、「第4日」に取り組んでいることが書かれ、さらに、本書に「立体の重心についての諸定理」を入れることを初めて記している[5]1637年3月には、「第4日」原稿の一部をエルゼヴィルに送り、4月には「立体の重心についての諸定理」、5月には「第4日」の残りの原稿を送った[27]。しかし、仕上げ中の同年6月、ガリレオは患っていた眼病により右目を失明してしまった[28]

本書の印刷は、「第4日」完成前の1637年4月に始められていた[21]。ガリレオは「第4日」後に「第5日」を書こうとしていたため、エルゼヴィルは1637年11月、可能ならばその完成を待つと手紙に記している[27]。しかしこの原稿は完成せず、1638年7月、本書はそのまま出版された[21]

本書は出版後、特にフランスとドイツで広まり話題となった[29]。ローマにも1639年1月に50部が届けられ、数週間で完売した[29]

ガリレオは出版された本を1638年8月に受け取った。しかし、そのときは両目を完全に失明していたため、読むことはできなかった[28]


  1. ^ ガリレオ(1937) pp.9-10
  2. ^ a b 伊東(1985) p.65
  3. ^ ガリレオ(2007) p.13
  4. ^ 伊東(1985) p.66
  5. ^ a b ドレイク(1985) p.475
  6. ^ ガリレオ(1937) p.20
  7. ^ 田中(1995) p.187
  8. ^ 伊東(1985) p.59
  9. ^ ファントリ(2010) p.489
  10. ^ ファントリ(2010) p.517
  11. ^ a b 高橋(2016) p.292
  12. ^ 伊東(1985) pp.68-69
  13. ^ 伊東(1985) p.69
  14. ^ 田中(1995) p.213
  15. ^ 高橋(2016) p.272
  16. ^ 伊東(1985) p.145
  17. ^ a b 高橋(2016) p.270
  18. ^ 伊東(1985) p.61
  19. ^ 伊東(1985) p.64
  20. ^ 高橋(2016) p.276
  21. ^ a b c d 伊東(1985) p.66
  22. ^ a b c ドレイク(1985) p.473
  23. ^ a b ドレイク(1985) p.474
  24. ^ ガリレオ(1937) p.2
  25. ^ ドレイク(1985) pp.474-475
  26. ^ 伊東(1985) pp.66-67
  27. ^ a b 高橋(2016) p.277
  28. ^ a b 伊東(1985) p.67
  29. ^ a b ファントリ(2010) p.489
  30. ^ ガリレオ(1937) pp.46-47
  31. ^ 原(2013) p.50
  32. ^ a b c d 中根(1994) p.195
  33. ^ ガリレオ(1937) p.51
  34. ^ ガリレオ(1937) p.59
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  36. ^ 原(2013) p.53
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  41. ^ 小林(2004) pp.44-45
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  49. ^ 小林(2004) p.53
  50. ^ 小林(2004) p.54
  51. ^ 小林(2004) pp.54-55
  52. ^ ティモシェンコ(1974) p.14
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  56. ^ a b 伊東(1985) p.151
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  60. ^ ガリレオ(1937) pp.125-126
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  62. ^ ガリレオ(1948) pp.25-27
  63. ^ a b c 伊東(1985) p.154
  64. ^ 伊東(1985) pp.247-248
  65. ^ 高橋(2016) pp.308-313
  66. ^ 伊東(1985) p.249
  67. ^ 伊東(1985) p.250
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  71. ^ コイレ(1988) p.386
  72. ^ コイレ(1988) p.141
  73. ^ コイレ(1988) p.66
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  75. ^ クリース(2006) p.85
  76. ^ クリース(2006) pp.85-86
  77. ^ a b c コイレ(1988) p.473
  78. ^ クリース(2006) p.87
  79. ^ a b ガリレオ(1948) p.145
  80. ^ 伊東(1985) pp.158-159
  81. ^ ガリレオ(1948) pp.145-146
  82. ^ ガリレオ(1948) p.146
  83. ^ 伊東(1985) p.160
  84. ^ 高橋(2016) p.332
  85. ^ 伊東(1985) p.161
  86. ^ 高橋(2016) pp.350-351
  87. ^ ダンネマン(1978) pp.90,95
  88. ^ 𠮷仲(1991) p.51
  89. ^ ファントリ(2010) p.51
  90. ^ ティモシェンコ(1974) p.10
  91. ^ 小林(2004) p.56
  92. ^ 小林(2004) pp.56-57
  93. ^ 小林(2004) p.42
  94. ^ a b 金山(2015) p.10
  95. ^ 金山(2021) p.42


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