島唄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/17 05:29 UTC 版)
代表的な唄者
Category:唄者も参照
- 福島幸義
- 池野無風
- 大島郡笠利村(現・奄美市)出身。奄美の島唄と詩吟や謡曲や日本民謡などをこよなく愛した奄美大島北部のカサン唄の名人であった。奄美の三線の他尺八や三味線なども嗜んでおり、高い声を出していく鍛錬をする際などは伴奏に使う尺八をより高いキーのものに変えながら教授していた事でも有名である。
- 南政五郎
- 大島郡笠利村(現・奄美市)佐仁出身。1889年-1985年。カサン唄の代表的唄者として知られる。地元で唄者として知られた母のもとで育ち、唄遊び(歌掛け)の場で自然に島唄を覚えて育つ。25歳の時、名瀬の八千代館という劇場でデビューした。戦後になり、アメリカ統治下で娯楽の乏しかった時代に奄美諸島各地を回り、その名を全島に広めた。1961年(昭和36年)、文部省主催・全国民俗芸能大会に参加。1975年(昭和50年)、郷土民族部門・南海文化賞受賞[3]。
- 吉永武英
- 大島郡宇検村屋鈍出身。同村湯湾出身の石原豊亮、芦検出身の中山音女や田原ツユ、奄美大島在住時代の朝崎郁恵などヒギャ節の歌い手と戦後共演し、活動していた代表的な人物の一人である。
- 山田武丸
- 大島郡龍郷村(現・龍郷町)秋名出身。奄美大島北部の龍郷町秋名出身の唄者。「家の中の座敷」に座って唄う、「座唄(ゆりうた)」や、仕事唄である「イェト」などの古風な島唄を得意とした「唄者」であり、独特な絞り出されたような声も特徴的であった。
- 兵庫県在住。加計呂麻島瀬戸内町諸数出身。
- 太原俊成
- 勝島徳郎
- 大島郡西方村(現瀬戸内町)久志出身。近隣の宇検村の唄者から習い取った民謡や八月踊り唄などを含む多数の希少な島唄を得意とした奄美大島西海岸出身のヒギャ節の名手の一人である。晩年は兵庫県にてすごしていた。
- 石原豊亮
- 大島郡宇検村湯湾出身。ヒギャ節のカテゴリーに良く入れられる旧焼内村域である現在の宇検村の「エイチ(焼内)唄」の唄者。中でも特に独特な島唄が濃厚に残る地域の湯湾の出身でもあり、同村生勝出身の坪山豊とはかなり歌風がことなる島唄を唄っていた。
- 築地俊造
- 大島郡奄美市笠利町川上出身。30代のころ福島幸義に師事。その後坪山豊と交流し、島唄の磨きをかけた。国内、国外招待多数。高音質の唱法に特徴があり、洋楽にも通じるものがあるといわれていた。島唄の即興が得意。日本民謡大賞優勝、総理大臣杯受賞。2017年死去。
- 濱川昇
- 奄美大島大島郡大和村大金久出身。生前、奄美大島の旧名瀬市の市街地にて三線店を経営していた。故築地俊造が近接した建物に若い時分に住んでおり、濱川昇が製作し、組み上げたばかりの三線を弾きながら歌三線を研鑽した話は有名である。晩年は鹿児島県指定伝統的工芸品「サンシン」の伝統工芸士に指定され、後に店舗を奄美市名瀬石橋町から故郷にほど近い奄美大島大和村大和浜に自宅ごと転居していた。生前は実兄の信良と「濱川兄弟」として親しまれ、奄美大島南部方面の「国直米姉」や「飯米取り節」などを兄弟での連弾と交互に唄うスタイルで人気を博していた。
- 生元高男
- 奄美大島大島郡宇検村生勝出身。坪山豊と同じく奄美大島南部の宇検村生勝出身であるが、坪山とは対照的に家族中が島唄好きでよく楽しみ、中学校を終えてから本格的に島唄三線を始め、以来名瀬に居を構えていたが、折に触れて故郷の宇検村生勝に帰り、故郷の古老達から島唄を学んできた謙虚な性格で親しまれている。
- 当原ミツヨ
- 奄美大島奄美市笠利町在住。1987年(昭和62年)、地元で民謡大会が行われ、初めて出場する。地区大会を勝ち進み、初出場で日本民謡大賞での日本一の栄冠を手に。奄美群島初の女性民謡日本一となる。その時の「野茶坊節」は一躍全国に知られるようになる。大島紬を織るかたわら、教室を開講し後輩の指導、ライブなどで活動。
- 石原久子
- 奄美大島出身。
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