尾上松緑 (2代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/07 08:02 UTC 版)
来歴・人物
七代目松本幸四郎の三男として東京・日本橋浜町に生れる[1]。長兄が十一代目市川團十郎、次兄が初代松本白鸚。四代目中村雀右衛門は義弟にあたる。三味線奏者の三代目・今藤長十郎はいとこ。
永田町小学校(現・千代田区立麹町小学校)[2]、京華中学校[2]卒業。小学校では鉱物学者櫻井欽一と同級であった[3]。
1918年(大正7年)、帝国劇場において松本豊で初舞台。1927年(昭和2年)、父の意向により六代目菊五郎のもとへ修行に出され、以後立役としての厳しい稽古をつけられる。1935年(昭和10年)、歌舞伎座『伽羅先代萩』の荒獅子男之助ほかで二代目尾上松緑を襲名する。
1937年(昭和12年)には父から日舞の一派藤間流の宗家を譲られ、四世家元四代目藤間勘右衛門を襲名する。
太平洋戦争が始まると中国戦線に出征するが、敗戦により生還した。翌1946年(昭和21年)、長男の亨(後の初代尾上辰之助)が生まれるが、まもなく父と師の相次ぐ死に見舞われる。六代目菊五郎の死後、菊五郎劇団を率いるようになり、この頃から活発な舞台活動を見せはじめる。
1975年(昭和50年)、二代目藤間勘斎を名のって勘右衛門を長男・辰之助に譲ったが、1987年(昭和62年)、その辰之助に先立たれるという悲運に見舞われる。美声だった辰之助のことを「あいつの笛は俺より上等だ」と言って悔しがったほど期待をかけていた後継者だっただけに、端で見ていても気の毒になるような落胆ぶりだった。その後自身も身体の不調をうったえるようになるが、辰之助の忘れ形見となった孫の二代目尾上左近(四代目松緑)の成長を気にかけていた。辰之助の死から2年経った1989年(平成元年)6月25日、急性肺炎のため死去。76歳だった。墓は神奈川県鎌倉市鎌倉霊園に建てられている。
新橋芸者に生ませた男児があり、光と名づけて次男として認知、のち藤間勘左を名のった[4]。
東京・千代田区のホテルニューオータニの近くに自宅を構え、住所からは「紀尾井町の松緑さん」と呼ばれて親しまれた[5]。大向うの掛け声も「音羽屋っ!」ではなく「紀尾井町っ!」とかかるのが常だった。
- ^ 尾上松緑(2代目) コトバンク 2018年8月16日閲覧。
- ^ a b 『役者の子は役者』36p
- ^ 『蟇石庵塵語』櫻井欽一著 1972年「我が師を語る」
- ^ 『役者の子は役者』134-5p
- ^ “麹町界隈わがまち人物館 尾上松緑-2世-”. 千代田区麹町出張所地区連合町会・地域コミュニティ活性化事業実行委員会. 2015年2月21日閲覧。
- ^ 『我が道』 伊東四朗 スポーツニッポン 2011年8月9日付参照
- ^ “7《高橋英樹に始まって》その1”. (白川文造)BUNZO’s note ~昭和のテレビ編成マンの昔話~ (2008年10月26日). 2013年5月7日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』1965年4月10日(東京本社発行)朝刊、14頁
- 尾上松緑 (2代目)のページへのリンク