小幡甚三郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/04 08:34 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動経歴
中津藩の家臣団である上級藩士の小幡氏。小幡篤蔵の3男として豊前国に生まれ、藩校・進脩館で兄と共に塾頭並をつとめる。
文久4年(1864年)に江戸より帰国した福澤諭吉に伴って江戸へ出て、鉄砲洲中津藩邸にあった慶應義塾で蘭学を学び、非凡の才を認められて、開成所教授手伝並出役となる。明治4年(1871年)芝新銭座から三田に移転するにともなって、慶應義塾の教授法の整備、会計事務などに尽力した。
明治3年(1870年)に文部省に入り『西洋学校軌範』を記して、明治政府が明治5年(1872年)に学制を整備するにあたってこの学校制度案が採用された。次いで藩主・奥平昌邁に随行して米国に渡ったが、急病で客死した。
著書
- 『英国軍艦刑法』
- 『西洋学校軌範』
- 『洋兵明艦』
- 『新砲操練』
脚注
参考文献
- 日蘭学会『洋学史事典』雄松堂〈叢書〉、1984年。
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- ^ 小幡甚三郎のアメリカ留学 : 福澤研究センター所蔵資料紹介 西沢直子、近代日本研究 14号、1997
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