妻木城 妻木城士屋敷

妻木城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/07 01:45 UTC 版)

妻木城士屋敷

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妻木城士屋敷
岐阜県
別名 妻木陣屋
城郭構造 屋敷
築城主 妻木頼忠
築城年 慶長6年(1601年
主な城主 妻木氏
廃城年 万治元年(1658年
遺構 石垣土塁、移築門、碑
指定文化財 県指定史跡
位置 北緯35度17分46.3秒 東経137度11分33.7秒 / 北緯35.296194度 東経137.192694度 / 35.296194; 137.192694
地図
妻木城
士屋敷跡
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概要

妻木城士屋敷(つまぎじょうさむらいやしき)は、妻木城の北側山麓にあった領主御殿や家臣屋敷の総称で、城跡と同じく岐阜県史跡に指定されている[3][4]。江戸時代に入ってから妻木氏が断絶するまでここが本拠となった。近くにある崇禅寺には、移築された屋敷群入口の門と妻木城の歴代城主の墓がある。

歴史

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦功を挙げた妻木頼忠は、慶長6年(1601年)に徳川家康から改めてこの地域を与えられ、その際に妻木城北麓にこの屋敷群を建てた。その時から元禄年間にかけて妻木城から次第にこの屋敷に拠点を移し、主にここが機能するようになっていった。その後土岐郡内7500石の領主は頼忠の子の妻木頼利、次に頼利の子の妻木頼次7000石(頼次の弟・幸広に500石分地のため)が跡を継いだが、頼次が跡継ぎの無いまま万治元年(1658年)に死去したため、妻木氏本家は3代で断絶し、屋敷も放棄された。しかし、頼次の弟の妻木幸広が土岐郡大富村500石から妻木上郷へ領地替されたことにより、上郷に新たに陣屋を築いて上郷妻木家(在地代官は日東氏)として存続し、明治維新に至った。

立地・構造

妻木城士屋敷は妻木城の北麓に位置する「根小屋」区域で、城主居館・家臣屋敷地からなる。現在確認できる遺構は南から北方向の緩斜面に3段に普請された石垣と上段の城主居館に残存する井戸址・庭園址・門址である。石垣は高さ1.5-2mほどで中央部には虎口と思われる大石段が残存する。南側の山裾には石塁で補強した溝が山腹と城主居館の境に巡らされており、雨水の流入を防ぐためのものと見られている。一部区域であるが家臣屋敷地の区画が残る。

城主一覧

  1. 妻木頼忠
  2. 妻木頼利
  3. 妻木頼次

家臣屋敷

沢井・土本・好安・仙石・水野・本田・小栗・安藤・那須・中垣・塚本・酒井・山神・豊部・土屋・有川・小池・高野・中條・芦尾・松本・奥村・ 加藤他(妻木領主御殿跡並家中屋敷見取略図 参照)。


  1. ^ 「指定文化財一覧」”. 土岐市公式HP. 2019年5月21日閲覧。
  2. ^ 「妻木城跡」”. 岐阜県公式HP. 2019年5月21日閲覧。
  3. ^ 「指定文化財一覧」”. 土岐市公式HP. 2019年5月21日閲覧。
  4. ^ 「妻木城士屋敷跡」”. 岐阜県公式HP. 2019年5月21日閲覧。


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