大石良雄
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辞世の句
大石良雄の辞世の句一般には1または2として知られるが一部文献には3とされる。
- あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし
- あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし - 『介石記』、『江赤見聞記』、『義人遺草』
- 極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人
しかしながら1および2は浅野長矩の墓に対してのもので、実際には次が大石辞世の句として現存する。
- 武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原
これは大石が辞世を書いたものを堀内伝右衛門が預かり、大石自身の手になる現物が今に残っている[18]。石川九楊は大石の筆跡を「ふ」や「る」の止めが高く位置して、「当時の武家の基本書法である御家流を踏まえている」との印象を語っている。
注釈
- ^ 天城3万2000石を領する大名並みの陪臣。また実際には岡山藩池田家の本家筋に当たる。詳しくは池田氏や岡山藩を参照のこと。
- ^ しかしこの二人は任を誤り、江戸家老・安井彦右衛門に手渡し、美濃大垣藩主・戸田氏定の手紙を持って帰ってきた。
- ^ 来迎院には、大石が吉良邸討ち入り成就を祈願したと伝えられる勝軍地蔵像が伝わる。また大石を偲び、毎年12月14日に茶会が行われている。
- ^ 妊娠中の妻りくと主税以外の子供たちは翌年元禄15年(1702年)4月に妻の実家の豊岡へ帰した。りくは7月に大三郎を出産。この子はのちに広島藩に仕えることになる。
- ^ 真筆は細川重賢により処分され行方不明。現存するのは「安永7年(1778年)写し」など複数で、内容にもそれぞれ相違がある(永青文庫)。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k 朝日日本歴史人物事典『大石良雄』 - コトバンク
- ^ a b 百科事典マイペディア『大石良雄』 - コトバンク
- ^ 世界大百科事典 第2版『大石神社』 - コトバンク
- ^ 横田良遂と正虎が同一人物という説もあるが、両者には年数的に世代の隔離があり、温良の生誕年も不明である(後藤武夫伝「新撰大石系図」)。広島藩は系図および世代年数の懐疑を理由に、大石温良を「小山流大石家」の相続ではなく、「別家(横田流大石家)」取り立てという形を取った(知行も500石に減じている)。
- ^ 泉岳寺 鎌田豊治「大石家の墓」(「忠臣蔵史蹟辞典」2008年、中央義士会)。
- ^ 中央義士会『忠臣蔵四十七義士全名鑑』より「大石内蔵助良雄」(小池書院、2007年)
- ^ 池田家文書「赤穂札之高都合三千貫目程之由」
- ^ 来迎院 公式サイト
- ^ 松浦静『甲子夜話』(正篇三十など)
- ^ 「松浦家関係文書」(松浦史料博物館)
- ^ 現存する「箱根五輪塔」(俗称:曽我兄弟の墓)には「火輪」と「地輪」の部分に削られた破損がある(神奈川県足柄下郡箱根町・城前寺)
- ^ 川崎市Webより『市民ミュージアム』(川崎ロータリークラブ 本田和氏)
- ^ 「酒井家編年史料稿本 二百二十六」(東大史料編纂所)。酒井忠囿は松之大廊下事件が起きた際にも、吉良に見舞いをしている。
- ^ 「皆々草臥居申候間御酒被仰付候得と被申候」「皆々悦ひ互にしゐて呑被申候」(『白明話録』)
- ^ 「江赤見聞記」巻六
- ^ “内蔵助介錯の刀も「元禄赤穂事件」展”. 赤穂民報 (2019年12月13日). 2022年10月19日閲覧。
- ^ 港区高輪三丁目。細川家邸跡より少し離れており、厳密には大石良雄が切腹した場所ではない(細川邸は高輪一丁目)。
- ^ 「芸術新潮」(特集「世紀の遺書」・2000年1月号)
- ^ 呉陵軒可有ら(編)『誹風柳多留』など(『新版 日本架空伝承人名事典』より「大石内蔵助」田原嗣郎・記)
- ^ 川平敏文「室鳩巣『赤穂義人録』論-その微意と対外思想」(井上泰至編『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年) ISBN 978-4-585-22152-4
- ^ 「内蔵助事、全活気成生付故、於京都遊山見物等之事に付、不宜行跡も有之、金銀等もおしまず遣捨申候」(『江赤見聞記』巻之四)
- ^ 『沾徳随筆』より「浅野家滅亡之濫觴」
- ^ 太田南畝「街談録」「半日閑話」など。
- ^ 六月十二日付の堀部宛て大石書状ほか(「堀部武庸日記」上)。
- ^ 「火鉢煙草盆など暖諸用具相渡すべく伺い出も有りしが、御指圖破れざるに付き見合せと取り計べし」(『肥後熊本藩 細川家記』)
- ^ 「脇差は大石家伝統の古語を彫りつけた木柄の刀で相当の業物」(『堀内伝右衛門覚書』)
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